2006/08/27

第1話 「能楽おもしろ講座」が生まれる背景

私は現在京都で「能楽おもしろ講座」という名前の能のワークショップを年間130公演ほどやっています。

 

この仕事を通して、私には600年続く能というものを今日的なものとして伝えるメッセンジャーとしての役割、そして超保守的な男社会の中で今までの能のプログラムとは違うものを提供するというベンチャーなもの、そしてそれをプロデュースするという3つの役割があるということに気づきました。

 

大人でも難解と思われている能。その能を集中力や学力が低下していると言われる子供たちが「チョー面白かった」「楽しかったでーす」と声をかけてくれるのはなぜか?600年続いている能の世界で実際に能に携わっている人々の仕事に対する考え方や志はどんなものか。そして、能を創った世阿弥の言葉を通して、今生きる私たちに600年前の元祖、能楽師世阿弥の志したものはなんだったのか。600年続いていると一言で言うけれどもこんな演劇は世界中どこにもありません。彼の書いた「花伝書」はリーダーたちにも生きる指針ある種のビジネス書として読まれている。それって凄いと思いませんか?

 

なぜ、今、能なのか? 何が私たちの心に迫ってくるのか? 

一緒に謎解きの旅に出かけてみませんか?

 

 最初に博多っ子である私が京都という土地でしかも能という伝統文化の仕事に、なぜ携わるようになったのか。漠然とした思いで仕事をしていた私が、志を持って仕事をするようになったのは何故かを私の生い立ちを振り返りながら、お話したいと思います。

 

私は、父の仕事の関係で、幼稚園2園、小学校3校、中学校2校と転校の多い子供時代をおくりました。せっかく仲良くなってもある日突然父の一声で転校の繰り返し。記憶に残る最初の転校は、小学校入学式当日です。ぴかぴかの一年生の私は母に手を引かれて見たこともない小学校の門をくぐりました。1組から4組まで、新一年生の名前が大きく廊下に張り出してあります。皆、胸に大きなひらがなで書かれた名札をつけています。母と必死で私の名前を探しましたが、4組まで行っても見つかりません。

ついに母は職員室に私を連れて行ったのですが、とりあえず4組の空いている一番後ろの席に座ってくださいとのこと。数分後、私はとりあえずの空席に座っていました。名札をつけていない子は私一人だったのを鮮明に覚えています。

 

私の転校デビューは こうして始まりましたが、この学校も1年生だけで、すぐ転校。

転校していくのも嫌ですが、転校先の教室に入り皆の前で「みんなー、今日から転校してきた純子ちゃんです。挨拶してください。」と先生から紹介されるときの恥ずかしさ。シーンとした空気の中、見つめるたくさんの眼。大抵は、その後空いている一番後ろの席に座り隣の子に教科書を見せてもらうというパターン。

 

 こういう経験を何度かすると人見知りをするようになるか、誰とでも話せるようになるか、どっちかです。そして私は、もちろん後者を選びました。お陰で中学校では転校した次の学期に学級委員をしていました。私の行動力の原点は、転校にあるのかもしれません。

 

 また私は、母から朝起きて糠の雑巾で廊下を掃除しないと学校に行かせてもらえませんでした。その母はお稽古事が大好きでしたので、小学校の時は鍵っ子状態。ガスや電気の集金のおじさんから「お宅はいつ来ても、おかあさんがいないけど働いているの?」と聞かれ「母はお稽古に行ってます。」と言ったときのおじさんの顔が忘れられません。

 

 このような母に対する反発からか、どこに出しても恥ずかしくない優等生の娘なんて私にとっては、まっぴらごめんでした。「人とは違うことがしたい」と思っていました。大学も地元の学校は受験せず、嫁ぎ先も京都というのはどこかで母と別れたいと思っていた気がします。私自身は、高校のとき「何かお稽古事をしなさい」と父から言われ、母がやっていないこと、周りの同級生がやっていないことということで謡の稽古をすることになりました。それまでもピアノやお絵かき等といったお稽古はしていましたが母の好きな日本的なお稽古はしていませんでした。でも不思議ですね。反発しながらもお稽古事を始めたのですから。

 

父の家は古い家で、祖母の方は豊臣家、吉川家ご指南役の片山伯耆流という居合い抜きの家元でしたが、祖父は孫の私から見ても非常に変わった人でした。明治の頃早稲田に合格したのにそのお金を持ってアメリカへ行き、ハウスボーイをしながらワシントン大学を卒業し帰国後神主になってしまったのです。父自身も高校卒業後家出し、満州へ。そのまま徴兵され、終戦後は38度線を越え、1年半後に帰国。目の前でソビエト兵に友人が銃殺されたり、満州の荒野で子供を埋葬している間に列車が行ってしまったりとの経験から父の口癖は「何でも考えすぎたらだめ。考えてもどうにもならんこともある。とにかくやりなさい。そして、同じやるなら気持ちよくやりなさい」と「タバコといわれたら灰皿、マッチ、新聞くらいは持ってきなさい」でした。

 そして、その謡の稽古が縁となり大学でも能楽部(学部は文学部です)に入ることになり、主人と知り合うきっかけになったのです。

 

大学卒業後は、父の勧めで山一證券へ。当時、大卒の女子の採用は余りなく山一では私の年が最初の大卒女子の採用でした。しかも福岡支店は、女子の営業が全国のトップということで、それまで新聞の経済欄を読んだこともなかったのですが顧客に「ドルはどうなるの?」と質問される度「ちょっとお待ちください」ではどうしようもないので、朝の会議が始まる前に日経や業界紙に眼を通し判らないところは必ず誰かに聞くようになりました。聞くことは、恥ずかしいことではなく、むしろ知ったふりすることの方が結果の出るこの世界では、してはならないことでした。このことは能の世界でも一緒です。

 そして転校で培われた人とのコミュニケーション能力が、この仕事をすることに、とてもプラスになりました。顧客名簿のない新入社員は、もっぱら電話をすることになります。

漠然と仕事をしても仕方ないので私は京都で暮らしていた経験からお寺にターゲットを絞ってリサーチを開始しました。また当時福岡は水不足だったので、そういう業種や人が絶対電話してないだろうと思われるマッサージ業にターゲットを絞りました。

その頃は今のように金融商品の知識が一般の方になかったのでお寺は大ヒットとなり先方にも喜んでいただきました。眼の不自由なマッサージ業の方も信頼関係ができると新入社員の私にお札をポンと渡して下さり債権類から始められ信用取引までされるようになると、やりがいや喜びと共に責任の大きさまも感じました。株式取引は顧客との信頼関係と自己責任の上に成り立っているのです。

営業や新規の顧客開発は、私の性格にあっていた様で今と違い総合職という言葉もなく女は一段下、結婚したらやめなければならないという社風でしたが、会社にいた2年半は楽しい毎日でした。国際情勢や政治の流れで変化する仕事が面白く、分厚い顧客帳を自宅に持って帰り、顧客に電話をしているのが父に見つかったときは「こんなことをさせるために就職させたのではない」と叱られてしまいましたが、数字を追う楽しさには、かえられませんでした。

 

 毎日私たちはたくさんの人と会話していますが、その中には数十年たっても忘れられない言葉があります。そういう言葉は何気ない中に真実を含んでいて自分の中で腑に落ちるものがあったからいつまでも記憶に残るのです。「男の新入社員は2.3年たっても素直やけど女はあかんわー。1,2年もしたら、ずーっと前からいたみたいになる。素直さを忘れたらあかんでー」と言われたこと。私の上司の「営業は、あんまり慎重な人はだめだねー。ちょっと、そそっかしいくらいがいいんだよ」という言葉。また、私が結婚退社するときに食堂のおばちゃんが「お手伝いさんがいる家に嫁ぐのだったら そのお手伝いさんに可愛がってもらうのが一番よ」と言われたこと。お客様からの「やめても新聞だけは毎日必ず眼を通しなさい。唯の主婦になったらだめだよ」の言葉。

 転校が多かったがために、身につけたコミュニケーションという能力。女子高出身の私が男子学生を見て女性にはない能力や考え方に触れ男はすごいなぁと思ったこと。会社で身につけさせていただいた営業するということ。自己責任ということ。こられのことすべてが今在る私を作っているということに、遅まきながら最近気づきました。

 

 怒涛のように私の生い立ちを語りましたが、私の行動力、気働き、生活の中にある日本的なもののすばらしさへの気付きや日本文化との出会いは、全て私の両親のおかげだと思います。母と普通に話が出来るようになったのは、母が入院してからでした。母は59歳で亡くなりましたが、亡くなる前に、「あれだけ、お稽古事をしていたけれど生きがいにはならなかったわ」と言っていた言葉が忘れられません。母に反発していた私は、今しっかと父や母から受け継いだものを持っています。そしてそれを人に伝える仕事をさせていただいています。このような感性を持たせてくれた両親に感謝しています。

 人生に無駄はない。偶然は必然と言いますが、今、過去を振り返りそのことを実感しています。能の歴史は600年、そして私たちも自分自身の中にその伝統、遺伝子を受け継いでいるのです。

 

 次回は能楽師である主人と結婚し、どのようにして現在の仕事をするベースを作ったかというところからお話していきます。

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