2006/10/02  

第3話 能はOh No !

皆さんは能をご覧になったことがありますか?

お正月教育テレビなどで放送していると思わずチャンネルを変えてしまうタイプではありませんか?

一般の方にこの質問をさせていただくと多いときで3割、少ないときですと1割位の方が能を見たことがあると手を挙げられます。能という名前は知っていても実際に見たことがある方は意外に少ないものです。

 

次に私がよく質問するのは「能をご覧になった方で寝てしまった。或いは眠りそうになったことのある方?」という質問です。すると少し恥ずかしそうに何人かの方が手を挙げられます。でもどうぞ御安心ください。能を見て眠っているとき、皆さんの脳からはアルファー波が出て身も心も癒されているのです。だからと言ってお休みになりませんよう。そしてくれぐれもいびきだけはおかきになりませんよう。ご本人は癒されても周囲の方から白い眼でみられますよ。

 

ではなぜ能をみると眠たくなってしまうのでしょう?

退屈だから。じゃあ何故退屈するのか? 分からないからですよね。誰でも理解できないものには共感も関心も示さなくなります。

能はご存知のように600年前に出来た演劇です。私たちが謡本と呼んでいるのは、平たく言うと能の台本です。(ちなみにお客さんが台本を持ってみている演劇って能くらいじゃないでしょうか)言葉は当然古文ですからそれを読むだけでも難しい。しかも修辞語である掛け言葉などがたくさん使われています。そこに謡独特の抑揚がありお囃子の音がかぶさってくる。それを耳で聞く訳ですから分からなくて当然なのです。しかし日本人である私たちは日本人であるが故に、なんとなく分かる言葉もあるし古文の時間に習ったとか、なまじ知識や教養のある方ほど御自分の頭の中の引き出しを開けて理解や分析をしてしまうのです。そうしているうちに舞台上ではお話が進んで行き、今起こっていることが見えなくなってしまう。この「分からない」の連鎖が眠気を誘うのです。

唯、非常に素晴らしいお囃子や謡を聞きながら眠るのは究極の贅沢です。いいときほど良く眠れるといいます。どこか気持ちの悪いお囃子や謡のときはかえって気になって眠れないといいます。

というように能の見方は百人いれば百通りの見方があるのです。

足袋の白さだけが眼に焼きついた。これは芥川龍之介ですが、そういう人がいてもいいのです。ファーストフードのように万人が美味しいというものではないのです。

まずいという方がいてもいいのです。

また見る方のその日のコンディションにもよりますし心の状態にもよります。

例えば恋をしているときであれば「松風」や「井筒」に反応してしまうでしょうし、小さな子供がいらっしゃる方は「隅田川」に涙されることでしょう。

能のテーマは人の心や魂です。恋、恨み、嫉妬、親子の情。600年前の人も私たちも同じシーンを見て涙したのかもしれません。 

能は演劇です。そんなこと言われなくてもと思われるかもしれませんが、つい伝統芸能とか世界文化遺産に指定されたとかいう肩書きに惑わされ、心でみるのではなく頭で見てしまいがちです。

例えばここにバッグがあるとします。色も形も素敵。触ってみると革の感じもいいし縫い目もしっかりしている。よくみるとエルメスとある。でも私たちはついエルメスだからとか値段が高いからという価値判断をしてしまいがちです。

自分の眼で感覚で判断してみてください。誰かの評価ではなくあなたがどう思うかが大事なのです。

能の最大の魅力は見えないものを見る。これに尽きると思います。

昨年伯父が「姨捨」と言う能を喜寿の記念で舞いました。この曲は「桧垣」「関寺小町」と共に三老女物という能の世界では最奥の曲です。老女物というのは派手な動きもなく驚くような出来事も起こりません。しかしこの舞台にはみえないはずの月の煌煌とした白い光がありました。白く輝く月の光の下、ひとりたたずむ老女。私はいつか泣いていました。しかしこの曲を若い時に見ていても多分泣くことどころか辛気臭い曲とおもったかもしれません。能は見る人の今が反映されるのです。そして能はライブです。イマジネーションの世界をいかに自分の中に創っていくか。それはあなた次第です。

 次回は「能楽おもしろ講座」についてお話してみます。

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