2007/1/8   

第8話 お正月に思う

あけましておめでとうございます。

皆さんはどんなお正月を過ごされましたか?

私の、というより昨秋から、他家の書生に入った息子の年末年始を振り返りつつ、改めて能楽の世界のことを考えてみたいと思います。

彼の年末は自分の師匠家のお墓の掃除から始まりました。多分、今までちょこちょこっとしたお墓掃除は経験があると思いますが、数時間かけて徹底的にきれいにしたのは生まれて初めてだったと思います。彼の師匠は、十二世林喜右衛門先生ですので、お墓には祖父のお世話になった先代の林先生やご先祖の方々が入っていらっしゃいます。

彼がどういう思いで掃除をしたのか分りませんが、この世界に生きる人すべて、先代そのまた先代というふうにたくさんの人の芸の積み重ねの上にあるということを、認識してほしいと思っています。今、思わなくとも、いつか気がつくことがあると思っています。 人の和と輪がつくるものの上に芸があり、その輪の中に自分もあり、いつかその輪を誰かに繋いでいくという役目があるということです。

師匠のお墓掃除の次の日は、師匠の家にある舞台の掃除、暮も押し迫った30日は河村の舞台の大掃除、31日は元旦の奉納でお邪魔する下鴨神社の舞台の掃除というふうに掃除が続きます。

最近、掃除力は運気をアップするといった本が出ていますが、自分たちが日頃使っているというか、使わせていただいている舞台を自分たちで清めるというのは、身体にも心にもさわやかな風が吹く確かにいいことです。能はもともと神様に奉納するということで始まったのですから、その神様のいらっしゃる舞台を清めるのは神事でもあるわけです。能舞台の掃除は男の人たちの仕事です。日頃紋付袴姿の人々が頭に手ぬぐいを巻き、手にはハタキを持ちひたすら掃除をする姿はすがすがしくちょっといいものです。

 

「舞台の上は何を使って掃除しているのですか?」と聞かれることがよくあるのですが、何だと思いますか? 正解は「おから」です。さすが京都。なんて変に感心しないでくださいね。かなり大量のおからを日本手ぬぐい2枚を縫い合わせた袋状のものに入れ、少しお水を加えて拭きます。こうするとぴかぴかになるだけでなく、すべりもよくなるのです。ただし、やりすぎると滑りすぎて舞台から落ちたなどということになりかねないので、おからは年に数回で日頃は乾拭きをしています。

掃除の後、舞台に注連縄を張り、翁飾りというものを舞台の奥、鏡松の前に飾ります。そしてそれが終わると、舞台の玄関に鏡餅、京都では「おかがみさん」と親しみを込めて呼ぶのですが、20個余りの鏡餅を飾ります。毎年玄関のものすごい酢昆布の匂いを嗅ぐと「お正月やなぁ」という感じがします。

31日はここ数年、ホテルでカウントダウンの能があるので、師匠宅へ装束出しに行きます。

お正月の午前0時に、能がホテルの中庭にしつらえられた舞台で始まります。今年は「翁付石橋」でした。能が終わると「おめでとうございます」で私たちは帰るのですが、書生は能の装束を片付け、先生の家へ持って行き蔵にしまいます。そして、6時に始まる下鴨神社の奉納の為に移動。今年は近年になく寒かったそうです。舞台の上は紋付袴姿。寒いのも当然です。舞っているうちに夜がしらじらと明け、元旦の朝を迎えます。

例年ならここで終わりだったのですが、書生になったので、今年はそのまま観世会館の謡初めに行き、諸先生方とともに「四海波」を謡い、その後平安神宮の謡初めに行き、ホテルでの元旦の能の催しに行きました。翌二日は林家のお墓参りに同門の先生方と出かけ、彼のお正月が終わりました。

主人が亡くなり三年が過ぎ、彼が書生になって二月余り。数年前の彼からは想像も出来ませんでした。能の家に生まれ、幼い頃からこの世界の中で育ち、或る時「これは僕が選んだ道じゃない。やらされてただけや。」と言った時から今までとは違う人生を歩み始めました。

高校を中退しゲーセン通いが始まり、そこで知り合った仲間が我が家に寝泊りするようになり、東京へ。歌舞伎町のゲーセン仲間のマンションに寝泊りしゲーセン通いする毎日。 手持ちのお金もそこをつき歌舞伎町の吉野屋でのバイトが三ヶ月を過ぎる頃、主人が再入院することとなり帰宅。そして一ケ月もたたずに父親の死を迎えました。

葬儀が終わり家元のところへご挨拶に行くことを告げた私に「僕も行くし」と一言。「家元のところに行くということはどういうことかわかってる?」というと「わかってる」という答えが返ってきました。主人の容態が急速に悪くなった頃、京都に帰ってきた息子に「これからどうするの?」ということは簡単でした。しかしこのような時に二者択一を迫るのは卑怯ではないかという思いが私の中にありました。

 「僕も行く」と言った瞬間、彼は自分で選択したのです。選択したから変わったのです。

今彼はいつもポケットに謡本を入れています。車の中でも電車の中でも、謡本を見ていることが多くなりました。初舞は3歳に始まり数多くの舞台を勤めてきましたが、楽しそうに思いっきりという姿が私の中にはありませんでした。しかし、主人が亡くなり数ヶ月後、能を舞った後「どうやったぁ?」と聞いたら生まれて初めて「めちゃめちゃおもろかったわぁ」という答えが返ってきたのです。その答えを聞いた時、とても嬉しかったですし、この子は大丈夫と思いました。

彼がここに至るまでには多くの人の支えや励ましがあったことを感謝しています。危篤の主人の病室で私や息子と共に一晩中付き添ってくださった同門の方。お通夜の時、九州や東京から仕事をキャンセルして朝までお付き合いくださった方々。

翌日東京で仕事だからと、そのまま朝一の新幹線で行かれた大阪の囃子方の先生。危篤の時からずっと毎日来てくれた造形大の学生たちや卒業生たち。社中の方たち。お忙しい中、来てくださった諸先生。その方たちの語る生前の主人の姿、話が彼にたくさんの勇気や励ましを与えてくれたのだと思います。主人は生きているときには自分の息子に自分を語ることはあまりなかったと思います。しかし死後、自分の姿を他の人の口を通して息子に語ったと信じています。

息子は、能はチームワークであること。たくさんの方の支えがあって今の自分があることをそのとき自覚したのだと私は確信しています。

 

次回は息子の子供時代のことを通して世阿弥のいう「年々稽古」について話してみたいと思います。

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