2011.9.12  

第1話 茶道がわが道と知る その1

 

私の生い立ち

1971年8月10日三人兄妹の長女として、神戸に生まれました。

両親は選べないといいますが、この世に生まれる時に与えられた課題を解決する為に、最適な両親と環境を用意されたように思います。

両親の子供でなかったら、あとでお話しする阪神淡路大震災の経験もしなかったかもしれませんし、その前に日本人として生まれていなければ、お茶と出会っていても、仕事として受け止めていなかったかもしれません。

父は祖父が創業した青果卸業の会社経営をしています。祖父や父の会社に対する思いを見て育ってきたので、もし、私が長男として生まれていたら、父の会社を継いでいたと思えるほど、私も会社を大切に思っています。

父は、根っからの商売人です。「仕事は慣れたらあかん。飽きんようにしなあかん」と話してくれたことがあります。仕事に没頭していた父なので、私が小さいころは、あまり顔をあわすこともなく、たまに会っても、照れくさい感情を持っていました。

祖父母、父の兄弟、会社の関係者が、父に一目置いているのは子供心に感じていました。怒らないのに、怖い人なのかなあと・・・。

 父の姿を見てきた私は、大人は猛烈に働くものだと思っていました。 また、仕事に向かう姿勢から仕事、志を考える機会を私に与えてくれました。

母は父を支え、私たち兄妹を育ててくれました。子供の頃から体が弱かった母は、「久保家に嫁ぎ、お祖母ちゃんが休むことなく家族や丁稚さんのお世話をする姿を見て元気になった」と話してくれたことがあります。

私の友達を大切にしてくれて、いつも料理を作ってくれました。その手際の良さに、友達が感心するほどでした。

阪神淡路大震災の時には、避難所では、水が使えなく、トイレもひどい始末になっていました。気づくと母は、近くの兵庫港から海水を汲み、みんなが使う手洗いを掃除していました。すると、一人、二人と手伝う人が現れ、避難所にも関わらず清潔な手洗いを使用していました。母は「しなさい」という言葉をあまり使いません。しかし、母の行動する姿を見て、私も自然に体が動くようになりました。

母の姿からは茶道でいう、気配を感じる、空気を読んで行動する感覚を私は身につけてきたように思います。

 

お茶と出会う

15歳の時に、家の裏のお茶の先生のところへ、お茶とお花のお稽古に通い始めました。近所に住んでいる私の憧れのユミお姉さんが、「ひとみちゃん、私、お茶のお稽古に通うことにしたの」と言うので、何の考えもなく「私もお茶のお稽古に行く!」と、一緒に通うようになりました。それは運命的なはじまりでした。

母にお茶のお稽古に通いたいと相談したら、「お茶の先生とお祖母ちゃんは婦人会でお知り合いだと思うから、お祖母ちゃんに相談してみたら?」と言葉が返ってきました。その後はとんとん拍子に、お稽古初日を迎えました。

先生は若い頃は厳しい方だったようですが、私がお稽古に伺った頃は70代後半の頃で、とても可愛がってくださり、また、厳しくご指導していただきました。

「ひとみちゃん、美しいものをたくさん見なさいよ。日本のもの、お茶の世界にこだわらず、世界中のすばらしいものを見るのよ。あなたの中にある美意識は一つなの。その一点をたくさんのものを見て感じることで、上質にしていくのよ」と、真剣なまなざしで話して頂きました。

美意識を育てる根本的な教育と、見聞を広める楽しみを教えてくださいました。今の私をみると、美術館に通ったり、本を読んだりするのが大好きなのもうなずけます。

私は稽古場に行くことが好きでした。先生からお茶のいろはを習うことがとても楽しかったのです。そして、お稽古に通う道は、往復同じ道にもかかわらず、帰りはとても清浄感を持って、行きには気づかなかった草花が目に留まる私がいました。

 家族からは、「お茶のお稽古から帰ってくると、ひとみは元気になってるね」と言われていました。

週に一回のお稽古では、頭で考えず、体が動き出すお点前をします。お点前をしている間は、日常のことを思いわずらわず、ただお点前に集中する時間でした。悩みや苦しみがあっても、お茶に集中することで、不思議に心の清浄をとり戻していました。また、季節の花や器、茶人の逸話について語りあう時間は、心が喜んでいるのを感じていました。

いまから振り返ると、お茶のおかげで、私は、平凡な毎日の生活の中に、非日常を感じていたのです。そして、日本文化と精神の美しさを自然に受け入れるようになっていったのです。

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