2011.9.29  

第2話:茶道がわが道と知る その2

 

阪神淡路大震災を経験する

お茶のお稽古に励み、楽しむ私の日常に、1995年1月17日5時46分、阪神淡路大震災がおこりました。23歳の時でした。

その日は、早くから目が覚めてはいましたが、寒くてベッドの中でジッとしていました。そこに、突然の大きな揺れ、ベッドの横に掛けていた油絵がドスンと落ちました。窓から外をみると、それまでは、向かいの家しか見えていなかったのに、遠く先の方まで見渡せ廃墟と化していました。

母の「おじいちゃん、見てきて!!」と叫ぶ声がしました。私は一階の祖父の部屋に向かいました。祖父の部屋は箪笥や額が部屋中に密集していたからです。でもそれが幸いして、ちょうど箪笥が「人」の字となり、祖父の布団をブリッジする状態で命が助かりました。

祖父は布団の中から、「何がおこったんや?」「地震か?!」と声がしたときには、涙が出てきました。重厚な箪笥が、支えあうことがなければ、祖父はどうなっていたでしょうか。
 
 今思うと、あの大震災は、私に生きる意味「人生ってなんなの?生きるってどういうこと?」を、問わせるきっかけになりました。私の中にある何かが動き出したのです。

それ以来、「人間存在」に関する根本的な問いが始まり、さまざまな経験をし、「仕事とは?志とは?私ってなに?」と、考えては立ち止まり、寄り道しながら進んできました。

お茶が仕事に

震災後、私は、京都の老舗御茶道具商に勤める機会に恵まれました。うれしかった。お茶に携わる仕事ができるなんて夢みたいでした。だんだんとお茶が仕事へ、そして、しだいにお茶に対する志が生まれてきました。

 御茶道具商に勤め、茶道具の名称や使い方、作品の特長など、必死に覚えました。そのうちに、茶道具展、個展を任されるようになり、張り切って仕事をしていました。直接、業者や作家の仕事場へ出かけるなど毎日、忙しかったけれど、やりがいはありました。この仕事に出会うことで、業界の内と外を経験することができました。

陶芸家の個展を担当したとき、個展に出品する作品について、作家と打合せをします。打合せの度に、作家の工房に伺い、仕事の様子を見せてもらいました。自分の想いを茶碗にのせて、絵付けしていく様は、とても真摯で神聖なものを感じました。

「自分はこの人のように仕事に打ち込んでいるだろうか?」「私は一体何がしたいのだろうか?」

そんな自問自答をしながら、あっという間に6年の月日が経っていました。

ついに、 私は、さらにお茶の道を深めるために、裏千家学園茶道専門学校で学ぶことを決めました。毎日の忙しさにかまけて、自分の生きる道を誤魔化しているように思えたからです。大震災を経験していなかったら、32歳で再び学生生活をする決断はできなかったと思います。いつ終わるか分からない有限な人生を精いっぱい生きたいと想ったからです。

全寮制で二年間学びました。ここで、私は本当の意味で、お茶の「志」に出会ったのです。尊敬する先生方、仲間たちのお茶に臨む姿勢が私の魂を動かしてくれました。

稽古中に何度も感動がありました。道具の配列や主客の問答から、先人が今生きる人たちへメッセージを送っていると感じたことがありました。このことを「教え」というのでしょうか?

「こんなすばらしい教えを私は独り占めにしていたらいけない。このすばらしい茶道を一人でも多くの方と分かち合わなければ!」と思ったのです。

「それにはどうしたらいいの?えっ、もしかしたら、それってお茶の先生?」

私の中で、また、自問自答が始まりました。

 私は、日本の伝統・文化である茶道の中に日本精神と美を見てしまったのです。そしてお茶を愛するようになりました。一人でも多くの人に、お茶を通して、日本の美に触れてほしいと願っています。

茶道といえば、お茶室や高価な道具を思い浮かべる人もいますが、それは本質的なことではありません。平凡な日常の中に、高価な道具や設えにこだわらず、今あるもので工夫をして、お茶の心を表現できたら、どれだけ豊かに暮らすことができるでしょう。

19世紀後半に、欧米で日本の美が注目を浴びるジャポニズムと呼ばれる芸術運動がありました。それから百年以上の歳月がたち、日本人が日本人の手で、日本の美、すばらしさを、日常生活で再興する時が来たと想います。

おこがましいですが、私は、それを「日常に新しいジャポニズムを」と心の中で、繰り返し叫んでいます。それが私の志です。

私は、人生の終りに、「この人生に悔いなし」と思える生き方をしたいのです。人はいつこの世を去るかわからない。そのことに、怖がる必要もないけれど、だからこそ、私の魂に素直に、自分の「志」を、「今」を大切に生きたいと想っています。

 

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