2012.06.18      

10話 『おもてなしで用の美を顕す』

道具や空間には、使われて初めて「用の美」が顕れる。用を知らずして、美しい道具や空間は生まれない。「用の美」が顕れた場でこそ、おもてなしが実現する。

先日、板前さんが懐石料理を作っている姿を目の前で見ながらいただきました。板前に座ると、白木のまな板、ステンレスの厨房、調味料を入れている器、下ごしらえされた食材を入れる生地の箱、すべてのモノが磨き清められていました。

そして使われている道具以外は、一切何もない厨房でした。そこに置かれた包丁や鍋など厳選された道具には、使われ続けた美しさがあり、魂の輝きが感じられました。しかも、道具の配置や厨房のレイアウトにも見事なまでに無駄がなく、調理台には必要なモノしか置かれていないので、広々と盛り付けをするスペースが確保されています。そこには、用の美が顕れています。

どんなに芸術的なモノでも、使われていないモノであれば、そこには観賞の美はありますが、用の美は存在しません。茶道具も美術館に展示されるだけになってしまえば、用の美は失われます。

明治の大実業家で茶人であった益田鈍翁は、茶道具の膨大なコレクションを持ち、財力がありながらも、美術館を建てませんでした。市中で使われてこそ、茶道具だというのです。これは、慧眼ではありませんか。その証拠に、鈍翁の蒐集した茶道具の多くは、今も市中で使われています。

さらに、用の美をおもてなしというコンテクストで考えて見ると、おもてなしの意図に叶うものが、用の美を顕し、その意図を持って道具を使えば、用の美が顕れるともいえるのです。どんなに高価なモノを使っても、どんなに芸術性の高いモノを使っても、おもてなしの意図からはずれると、そこには用の美はないのです。

この観点から懐石店を見た時、厨房では使用する道具しかないので、何がどこにあるのか明らかです。停滞したモノがないので、鮮度のよい食材や調味料、器は使用するたびに清められるので清潔感が保たれます。

板前さんの動きはリズミカルでカウンター越から思わず、その仕事ぶりを見つめてしまいます。食材や器を取り扱う手数は少なく、手際がいいのです。調理人同士の会話は手短で簡潔なやり取りです。常に手、道具や調理台を清めています。

その毎日の繰り返しの中で、研ぎ澄まされるものがあります。毎日同じことをしているようで、発見があり創意工夫が生まれます。同じことを繰り返しているようでも、常に進歩しているのです。

このような場から創りだされた料理は、どれもおいしく、心の底から「おいしい」と思わず言葉が出てしまいました。すると板前さんは、素敵な微笑みで「ありがとうございます」と言葉を付け加えてくれました。場全体が用の美を顕すとき、そこに存在する人間同士の会話にも、無駄が省かれ、最少の会話の中で魂の交流が生まれます。

おもてなしは、空間とそこに存在する道具とその配置、人とその動きをして、用の美を実現するのではないでしょうか。おもてなしは、人を大切にする想いの表現だからこそ、今を極める人を育て、一期一会の場を創りだしていけるのではないでしょうか。

皆さん、おもてなしで私たちの生活に用の美を顕していきませんか。

次回は、お茶の目的の一つともいわれる「直心の交わり」を書いてみたいと思います。

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