2012.08.28   

11話 『直心の交わり』

人生にはいろいろなことが起こります。私は、今自分の置かれた環境でできうる限りのことをして、全身全霊で生きて行きたいと思っています。いきなりなぜこのようなことを書くのかと、いぶかしげに思われるかもしれません。でも私にとっては、とても現実的なことなのです。

1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災で、私が住んでいた神戸市兵庫区はガレキの山となりました。私の家は全壊地域にあって、周辺の家は見るも無残な状態でした。自宅は倒壊こそしなかったものの、家が北に大きく傾き、壁面には無数の亀裂が入っていました。姉妹は祖母の家に避難していたので、ビニールシートが張られた家で、両親と私の親子三人で川の字になって寝る期間がありました。

震災から一カ月経ったころ、自宅から50キロ離れて住んでいた祖母が私たちの様子を見たいというので、車で自宅まで案内しました。祖母は昭和元年生まれで神戸空襲に遭い、焼け野原の神戸を体験しています。その祖母が車中で突然、泣き出しました。「人生でこんな体験を二回も味わうなんて。同年代の人たちのことを思うと辛い」と。

その夜、私は、祖母の嘆きをキッカケに我慢していたことが一気に噴き出し、川の字で寝ている両親の横で号泣してしまいました。父は、最初、私の泣き声にうろたえましたが、母が「比登美にも、いろんな想いがあるのよ」と父に言い、私が泣くにまかせてくれました。

被災生活が続く中で、段々と、私自身が雑な人間になっていくような、また打算的な考え方になってきている、そんなことを思う瞬間が何度もあり、もう耐えられないと思ったからです。

当時の神戸は、明日はどうなるのかという希望のない状況でした。多くのお茶の先生が茶室や道具を失い、お茶を続けることを諦めていました。お茶のお稽古どころではないというのが本音だったと思います。

私はそんな環境に置かれながらも、お茶のお稽古がしたくてしたくて、たまりませんでした。週に1日の、あのお稽古が、私にとってかけがえのない時間であることを思い知らされることとなりました。

私の師匠の家も完全に倒壊し、震災前の稽古場は跡形もありませんでした。先生はご子息の家に引っ越されていました。みな精神的にも苦しい日々が続く中、私たちは稽古場の復旧を心待ちにしていました。

そんなときに、お稽古場の先輩のアヤコさんは、乏しい環境の中で、お茶会を開いてくれました。先輩も家を全壊されたのですが、一年後、驚異的な速さで家を建て直され、先生と稽古人をお宅のお茶会に招待してくれたのです。毎週会っていた先生や稽古場の人たちと、ひさしぶりに会うことができました。

アヤコ先輩の家に伺うと、二階の一部屋が和室になっていました。お茶ができるように小さな水屋が和室の奥に作られていました。『震災に遭われても、お茶を続けるんだなぁ』という想いが私の脳裏に浮かびました。質素な設えのなかに、先輩の不屈の精神が伝わってきて胸が打たれました。

お昼どきだったのでアヤコ先輩は昼食の準備をして下さいました。一枚のトレイの上に懐石料理が盛り付けられ、ご自身で運んで来られました。私たち5人分の料理を準備されるのに、どれだけの時間を使われたのでしょう。

お道具もお料理も質素なものでしたが、盛りつけも美しく、薄味でおいしく、私にとって、茶道の「おもてなし」との再会の瞬間でありました。この一枚のトレイの上に、長年にわたって身につけてきた全てが凝縮されていました。

また、お点前の所作も変わることなく、震災後の激動の時期を経ても尚、輝いていました。久しくお点前をしていない私たちにも、お点前をする機会を創ってくれて、震災前の楽しい稽古時間が蘇ってきました。

そして、震災三年目に入るころに、待ちに待ったお稽古場が再開しました。先生が引っ越されたご子息の家の和室をお稽古ができるように設え、迎えて下さいました。その和室は、先生の寝室でもありました。よわい80歳を超えた先生にとっては、お稽古場を辞めてもおかしくない状況でしたが、おかれた環境で最善を尽くして稽古場を続けられたのです。

震災前、先生のお稽古場は、京間の畳が敷き詰められた八畳の茶室でした。茶室の前には縁側続きに立蹲がある立派な庭がありました。五月になると玄関には、先生の自慢の藤棚に花が満開に咲いていました。また、五月の神社でのお茶会には決まって藤の花を生けておられました。今でも藤のモチーフを見かけると先生を思い出します。
 
 そのような恵まれた環境で暮らしておられた先生にとって、ご子息の家での生活は大変だったと思います。先生の生活スペースである和室には、箪笥、テレビなどが所せましと置かれていました。

私たちのお稽古のときには、見えるものを片づけて、少しでもお稽古に集中できる環境を作っておられたのです。もちろん本格的な茶室や道具ではありませんでしたが、精一杯の準備で迎えてくださいました。先生は「こんなに遠くまで来てくれてありがとう。十分なお稽古ができなくてごめんね」とお稽古の都度、おっしゃられていました。

先生のお点前には、祈るような美しさがありました。
 
 どんなに恵まれない環境でも、その時できる全身全霊を尽されるお点前を拝見しながら、侘びしさの中に輝くような先生の美しさがありました。これが本当の「侘び」の美だと思いました。
 
 先生の生きざまは、私の胸の底深くに強く残されています。先生は亡くなられましたが、今の私の人生の原点を創ってくれた先生に出会えたことに感謝していますし、弟子であることを誇りに思っています。

お茶の美しさは、決して高価な道具や設えではありません。与えられた環境の中で、自分のできることを全身全霊でやることが大切なのだと、大震災の中で精いっぱいお茶の道に生きておられた先生や先輩方から教えてもらいました。

人生には山坂が誰にもあります。どんなに想いが強くても、肉体的・物理的にできることは限られています。その中で、できうるかぎりの準備をしてお客さまを全霊でお迎えし、おもてなしを受ける側も、それを全霊で受け取るときに、人知を超えた一体感が顕れます。これが、「直心の交わり」ではないでしょうか。
 
 大震災は、私にお茶の持つ本質的な輝きを見せてくれました。

私は与えられた環境のなかで、直心の交わりを日常に表現する、そんな生き方をしたいのです。

皆さんも、ともに日常生活の中で、お茶を活かしてみませんか。

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