2006/10/16   

第4話 教育者への道標

父の影

 

「到達、達成こそ真の喜び」と気がついた私は、それまでの自分がまるで別人かのように

前に向かって歩き始めた。

 今思えば遊ぶ時も、悪さをするときも、そしてがんばるときも常に完全燃焼型であることには変わりなかったのだろう。

 私は大学を卒業して大手銀行のカード会社に就職した。

 入社してからの私の営業成績はトップで、客観的に見れば、決して居心地の悪い世界ではなかった。しかし、私はサラリーマン生活の体質そのものに疑問を抱いた。

時々聞こえてくる「どんなにやっても給料は同じ」という同僚の声、そして、何事も上司に気に入られるのが基本で、必死に働かない人間たちが集まる世界に私は次第に大きな不満と限界を感じ始めた。

私の馬鹿正直さと完全燃焼型の突っ走り方はサラリーマン社会には適応しない。

私はわずか入社一年半で、辞表を出した。

 その時の上司の言葉が今でも蘇る―。

「佐々木君はいいね。お父さんの会社があるし・・・。100メートル競走できる君が羨ましいよ。こちらは持久戦だから、エネルギー温存しておかないと定年まで持たないからね・・・」

 まさか、こんな嫌味を言われるとは思ってもいなかった。

 さらに、私の上司から退職を知った人事部長は、一目散に飛んできて「ええ!辞めるなんて!そんな・・・」と懇願するような顔で私に泣きついた。

やはりできる人材を失うのか惜しいのか―。

生意気盛りだった私はいい気になった。しかし、人事部長が真っ青になった理由は私の仕事のできとは全く別のところにあった。

 当時、父親が経営していた成基学園のメインバンクがそのカード会社に関連する銀行で、京都でも大口の取引先だったのだ。人事部長にしてみれば、お得意様の息子のようなもので、その言葉は私ではなく、私の後ろにある父の影に向けられていたのである。

 それに気がついた私は、砂を噛むような気持ちに陥った。

「お父さんの会社があるし」と言った上司の言葉、そして「取引先の大事な息子さん」と腫れ物を触るような目で見る人事部長―。私の背後には、姿は見えずともいつも父親が

付きまとい、多くの人に様々な影響力を与えていたのである。

 

諍いの果てに

 

 その時25歳だった私は教育者の息子として、「教育」というものに大きな疑問を感じ始めていた。

 人間、勉強だけができてもダメなのではないだろうか―。

 会社には多くの高学歴を持った人間がいた。しかし、フタを明けてみれば、優れているどころかその学歴が妙なプライドとなって人間形成の仇になっているケースも多々あるのである。

 私と父を常に重ね合わせて見る上司や人事部長、就業時間中に床屋に出かけて平気で戻ってくる先輩、そして、人の批評しか言わない同僚―。

 どの人も、一流大学を出て、エリートと言われた人間ばかりだ。が、勉強ができても社会の役に立つ人間になるとは限らないのではないか。

 私はその時、父が経営する成基学園の子どもたちのことをふと頭に想い描いた。

 彼らの多くもまた勉強ができ、将来は一流大学へ進学するであろう子どもたちだったからだ。

 終身雇用神話もとうの昔話、これからはクリエティブで、問題解決能力が必要とされる時代がやってくるはずだ。勉強だけできても生きてはいけない。

 成基学園の子どもたちだけには、そんな大人になって欲しくない―。

 変な身内意識みたいなものが私の中にむくむくと目覚め、私は成基学園の経営に加わる決意をした。

 

 まだ20歳半ばの私には有り余るエネルギーがある。

 私は「本物の人間の育成」という明確なビジョンを掲げ、成基学園に新しい風を吹き込むため経営企画書の作成に日夜打ち込み始めた。

 これぞ、真の完全燃焼―、のはずだったが、その熱意や子どもへの想いとは裏腹に、私の中には、何かもやもやとしたものがつねに燃え燻っていた。

 私の側にいる大きな影・・・。不完全燃焼の理由(わけ)が父、雅一だと気がつくまでそう時間はかからなかった。

 会社の上司や人事部長だけではない。私自身が常に父親の存在を必要以上に意識していたのである。

 父親と自分を比べて欲しくはない。重ねて欲しくはない―。

 そして、同じ教育者という立場になった時、その思いは自分でも驚くほど強くなっていた。

 父の努力、築き上げたものは尊敬できる。でも私は父ではない。私は私なのだ。

 その気持ちは、仕事にも表れ始め、私が必死の思いで書き上げた経営企画書は、理念は変わらずとも、父が長年かけて創り上げた成基学園とは全く違う教育方針を掲げていた。

 そんな私に父が激怒しないはずがない。

 当初は私が経営を継ぐことを心から喜んでいた父だったが、自分の会社を根本から覆そうとした息子を黙って見ているわけにはいかなかった。

 私と父の関係は次第に悪化していき、父の怒りの矛先は次第に母親に向けられた。矛先は丸いものから鋭利なものへと変わっていく―。日々エスカレートしていく母に浴びせられる罵詈雑言の数々が私には耐えられなかった。

 気がつくと私の握りこぶしが父の顔面を叩き貫いていた。

 成基学園で「本物の人間の育成」を目指そうとしてから丸二年。私は荷物をまとめ、そのままさっさと家を飛び出した。

 

 一人暮らしはこの時が初めてではなかった。

 しかし絶縁状態に陥った私を待ち受けていたのは、本当の一人暮らし、つまり帰るところのない一人暮らしだった。

 以前なら一人暮らしをしていても洗濯物を持って帰れば母がアイロンまでかけて持って来てくれた。手料理も運んでくれた。

 金が必要とあれば、小遣いをせびることもできた。

 しかし、今はその全てがなくなってしまった。

 新聞代にも事欠く極貧生活が始まった。

 これからは、料理も、洗濯も、掃除も全部ひとりでやらなくてはならない。

当たり前のことであるが、そんなことにさえ、私は気がつかなかった。今思えば恥ずかしい限りである。

人は失って初めて有ることの大切さがわかる。

「ありがたいことだ・・・」ふとそう思えた。いや、無理やりそう思うことにした。

私は、「ない」ことでわかる「ある」ことのありがたさを全身で感じ取り、その素晴らしさを自ら楽しんでみようと思った。

「ない」ことは幸せだ。「ない」ことを知っている人間だけが「ある」ことの素晴らしさがわかるのだ。

やりなおそう−。「ない」ところから、もう一度、一から勉強しなおそう―。

 私は、アパートの隅にリサイクルゴミとして出される古新聞を拾い、求人欄に手当たり次第目を通した。

 当時上場企業で中途採用をする会社はほとんどなかったが、私にとって、そんなことはどうでもいいことだった。自分が成長していける会社、素晴らしい価値を世の中に提供していけるような会社に入りたかったのだ。

 ところが、何社訪問しても手ごたえを感じる会社にめぐり合うことはできなかった。

 ざっと40社以上は回ったと思う。

 気がつくと働きもしないまま、半年が過ぎ、私は、今で言うニートのひとりとなっていた。その間、友達らしい友達にも会わず、面接以外、人ともほとんど口を聞かず、誰からの励ましもない中での暮らしが続いた。私は自分の存在価値を見失いそうになっていた。

 怖かった。自分はこの世の中にいていいのか、これからどうするべきなのだろうか−。

 行く当てのないまま、気がつけば、私は大阪駅前にある高層ビルの最上階にいた。

 無数のビルが自分の目の下にある。ビルの数だけ会社があり、経営者がいるはずだ。

 自分にだってできる。自分ならできる−。何度も自分に向かってそう言い聞かせた。

そのうち「本当にできるのではないか」という確信にも似た想いが徐々に私の中に沸きあがって来た。

 そんな自分の想いが伝わったのか、縁あって私はある情報会社に入社することになった。

 今思えば、全てを失い、不安に陥り、そして気づいた末に得た結果だった。

 大切なのは、理屈ではなく自分自身から起こる「気づき」である。「気づき」は人間の大きく伸びようとする力の追い風となる。

 この追い風に乗った時、人は逆らうことなく大きく前に進むことができる。 

 私は再び社会に出て、サラリーマンとして働く決意をし、まさに完全燃焼のごとくモーレツに働きはじめた。同時に、迷いも不安も、過去の出来事となっていった。

 

父の死

 

 それからまた二年の歳月が過ぎた。家を飛び出してから私は一度も家に帰らなかった。

 そんなある日、出先から会社に電話を入れた私に、父の訃報が届いた。

 父は体力・気力を保持するため、毎日10キロのウォーキングをトレーニングとして自ら課していた。それは、雨が降ろうが槍が降ろうが頑ななまでに貫かれ、決して休むことなく続けられてきた。

 父はそのトレーニング中にバタリと倒れ、そのまま逝ってしまったという。

 私は、実家にたどり着くまで、すでに死んでしまった父に対して何かの言い訳を考えていた。今まで、連絡しなかった理由、今まで話し合う機会を見失っていた理由―。しかし、なにひとつ父を納得させるような言い訳は見つからなかった。

 父の亡骸をまえに、ひと言「ごめんな」と言うことしかできなかった。

 その時、私の中に様々な父に対する思いがこみ上げてきた。

 何度もアパートに送られてきた分厚い手紙。しかし、私が父の手紙の封を切ることは一度もなかった。父の愛情、父の想い、父の期待、そのすべてを私は拒絶し続けていたのだと思う。

 なぜ、頑なに意地を張っていたのか、父の愛情を受け止めることができなかったのかー。

 あれほど受け入れられない父だったのに、動かない父を目の前にし、初めて私の中に嘘偽りのない感謝と謝罪の気持ちが込み上げてきた。

私は再び何かを失うことで、大切なものを得たのである。それは、父が死ぬことで、親子の仲が修復できたという事実だった。

 今、鮮やかに父の声が蘇る―。

「喜一、金儲けではない、“人儲け”をしろ!」と。

 真の教育を求めて、教育者への道に歩み戻ろうか―。私は真剣に考えた。

 父が創った成基学園には改革の仕事が無限にある。

 今の子どもたちにとって一番必要なのは、生き方を学ぶということだ。

 もし、私がそれを望むのであれば、学園に戻るのが一番いいのではないか。

 父とケンカし、一度は飛び出し、「失うこと」で「ある」ことの喜びを知った自分の経験を、今こそ教育という現場で生かすチャンスではないだろうか―。 

 今の自分なら子どもたちの目を見て答えられる。子どもたちの様々な「なぜ?」に―。

 なぜ、学ぶのか?何を学ぶのか―という問いかけに・・・。

 私は、父の志を継いで、成基学園での再スタートを切った。

 

※ 次回は、成喜学園の改革に挑む!についてお話します。

 

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