2012.09.04  

   第65話:絆 −従業員研修旅行・被災地へ− その2.

 前回は弊社50周年のハワイ旅行が被災地への研修旅行に変更となった経緯についてお話させていただいた。

 社員たちが様々な思いを抱き、最初の被災地、福島へ足を踏み入れた2012年6月5日。ホテルに到着した私たちは、福島県立盤城高等学校合唱部の合唱を鑑賞させていただいた。

 福島県は合唱王国で名を知られている。震災の後、生徒たちの合唱の発表の場が激減していると知り、全社員の前で、是非その素晴らしい歌声を披露してもらおうと思ったのである。この被災地でがんばっている高校生の歌声を鑑賞することで、応援できたらという主旨である。

 翌日は再びバスに乗り宮城県石巻市内の寿司屋へと向かった。

 石巻は海産物で有名な町で、寿司王国と呼ばれている。東北へ旅行することで地域への経済支援はできるが、地元の名産を励ましたいという願いから全社員が石巻市7箇所の寿司屋に分かれ、到着後にそれぞれの店で昼食をいただくことにした。

 昼食が終ると、午後からはいよいよボランティア活動である。

 従業員研修旅行において、唯一自分たちが積極的に行動するプログラムだ。

 このボランティアは以前お話させていただいたSEIKI交流隊がお世話になった現地NPO「石巻復興支援ネットワーク」より紹介いただいたプログラムで「石巻市北上町十三浜長塩谷の地を花畑にする活動」をお手伝いするというものである。

 この長塩谷には震災前およそ10ha(約3万坪)の土地に30戸の家が立ち並んでいたが、津波の被害により高台にある一軒を除き、全てが壊滅。その地を花畑にするボランティアに私たちは参加したのである。

 作業は細かなガレキ拾いから始まった。

 スコップで20センチほど砂を掘っていくと、様々なものが顔を出した。

 ラジカセ、茶碗、ボールペン、ゴムボール・・・。

 辺りは何もなくなっているのに、人々の生きてきた証が確かにそこには残っていた。

 周りを見ると、社員たちは掘り出したガレキを黙々と片付けている。

 私は、掘り返しては出てくるガレキを見て、それがただのガレキとは思えなくなっていた。ガレキはここに暮していた人たちにとっては「思い出」という「宝」だったのではないか。社員たちはガレキを見て今何を思い、黙々とスコップを動かしているのだろう。

 私は社員たちが掘り起こしたガレキを指差して言った。

 「それを持って帰ってもいいんやぞ」

 訳がわからないといった顔で近くにいた社員が作業の手を止めた。

 「帰って、子どもたちにこの経験をどう伝えるか。口だけで伝えるんか?自分たちが今、掘り起こしたモノを持って帰って伝えることもできるんちがうか」

 彼らはしばらく考えていたが「現地のボランティアの責任者の方から、持ち帰ることは許可を得ているから心配するな」と私が言うと、何かを思いついたように、砂の中から掘り起こした茶碗を自分のカバンにそっと入れた。

 被災した人たちの思い出の詰まった「宝」を子どもたちに見せることで、子どもたちはまた特別な思いを被災地の人々に寄せることだろう。

 それをどう伝えるかは、社員たち次第だ。

 私は、ガレキ堀りで痛くなった腰を伸ばすと、大きく背伸びをして辺りを見回した。

 そろそろ夏の気配が感じられる。

 何もない不毛地帯のようになった地面を見つめ、私はあのソマリア難民活動のことを思い出した。

 やっても、やっても先の見えない、終らない支援。

 「これが・・・、果てしなく延々と続く海岸のガレキ拾いだったら、また気持ちも違っていたやろうな・・・」

 私は少しほっとした。

 あのソマリアで経験した空虚感に打ち勝ち「やらないより、やるほうがいい」と自分を奮い立たすには、ボランティアに対する相当の意識の高さが必要だ。

 先の見えないことほど、人の気持ちからやる気を奪うものはない。

 光の見えるゴールがあるから人はがんばれるのだ。

 目の前の長塩谷は3万坪の広さだった。

 単純に考えれば、ひとり約100坪ほどの広さを手入れすればきれいになる計算だ。

 私は、「延々」ではない「限られた3万坪」でのガレキ拾いに感謝した。

 この広さなら私たちがスコップを入れた場所が確実にきれいになっていくのが目に見えてわかる。

 言い方は悪いが、海岸のような果てしなく広い場所のガレキ拾いではなかった分、社員たちにとっては、達成感を得やすいボランティアであった。

 社員たちもその変化がうれしいのか、目に輝きすら浮かべてスコップを動かしている。

 社員300人の力は3万坪という広さ中で大いに功を奏したようだった。
 
 やがてガレキはなくなり、社員たちの手によって、なでしこの苗が植えられた。 

 秋までには美しい花がこの地を包むことだろう。

 長塩谷の地を花畑にする活動をしている佐々木力さんは、私たちに、被災地の人たちの気持ちをこう語ってくれた。

 「本来、がれきを片付けたり、花を植えたりする作業は地元の人が行うべきなのですが、

 被災者同士こそ『がんばろう』と声をかけあう状態にはありません。

 それぞれが、家族や友人、家や仕事などコミュニティを失い、ただ毎日の生活に追われ、それぞれが何で、どう傷ついているかが、わからないからです。

 被災して家を失った人、家族を失った人、友人を失った人、仕事を失った人、故郷を失った人、ボランティアで助けに来てくれた人が、被災地の一角で、片付けが終った何もない場所の中で、一面の花を見た時、何を感じるでしょうか。

 花畑を見ることで、そこを通る全ての人にメッセージを送ることができます。『あきらめるな』と。まかない種は咲きませんが、まけば咲くのが花です。

 花は誰が見てもきれいです。壊れて朽ちて、失われる故郷を捨てずにいる時こそ、本当の愛情が試されます。大変な努力が必要です。だから花畑を作ろうと思ったのです」

 佐々木さんの言葉の中には故郷を思う人々の魂が込められているような気がした。

 このなでしこの花が咲いたとき、初めて私たちの心と被災地の人たちの間に絆が芽生えるのだ。

 なでしこの花が、私たちの心を言葉に変えて、この地の人たちに伝えてくれるのことだろう。

 「がんばれ!みんな、あなたたちを応援しています」と。

 「頼んだで!きれいな花を咲かせてな!ここの人らにたくさんの元気を与えてあげてな」

 私は植えられたなでしこたちにそう声をかけた。

 道路が復興しても、住む家が新しく建っても、失ってしまった家族、故郷は戻っては来ない。

 故郷が大津波で流された事実は変りはしない。

 すでに震災から一年以上が過ぎた今、本当に必要なのは被災者の方たちへの心の支援だった。だが私たちは、彼らの心に安易に入り込むことなどできない。

 だからこそ、故郷に「花畑」なのだ。

 私たちは花を通じて、被災地の人々の痛みに寄り添い、応援メッセージを送ることができたのである。

 その日の夕方、ボランティアを終えてバスに乗り込んだ社員たちの顔が、来た時とは少しだけ変っているように見えた。

 膨らんだそれぞれのカバンの中には、彼らが掘り出した被災者の方の思い出の品(ガレキとは言うまい)が入っているのだろう。

 私は心の中で言った。

 「ほれ、見てみい!ハワイ旅行を止めて良かったやろ」

 社員たちは、研修旅行から戻った後、様々な形で被災地のメッセージを子どもたちに伝えてくれるに違いない。

 ボランティアが無事終わり、私たちを乗せたバスは今夜の宿泊先、ホテル観洋へと向かった。目の前に美しい志津川湾を臨むこのホテルにもあの日、津波が押し寄せた。

 震災時には「モーゼの十戒」のように、水が引き海底が見えたと言う。

 創業51年の老舗ホテルに到着した社員たちが、大きな声で迎え出た女将に挨拶をした。

 後に女将が私に言った。

 「今までいろんな団体のお客様を受け入れてきましたが、これほどまでに気持ちの良いお客様は51年間の中でも初めてでございます」

 長塩谷のボランティアからそれぞれが、何かを得たのだろう。

 客であるはずの社員の挨拶は、心の垢をさっぱり落とした後のように、女将の心に響いたのだった。
 
◆ 次回も引き続き、研修旅行のお話です。


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