2006/08/27

第1話 教師からカウンセラーへの道

生い立ち

 

人間関係構築コンサルタントで心理カウンセラーの新田義治です。

 

ストレスマネジメントや、人間関係をより良くして成果を出すリードマネジメントを通して、ひとを支援するのが私の志です。

ストレスを解消する個人セッションと、会社の社員研修が私の主な仕事です。

 

 この大事な心のお話をする前に、私がどんな生い立ちで、どんな経過をたどって、この世界に入ったかをお話し致します。

 

私は岡山県の美作(みまさか)の国、宮本武蔵の生家まで車で30分くらいの静かな山間の、戸数20軒足らずの村の農家で生を受けました。

 

家族は祖父母、両親、弟の6人で、しばらくは叔父達も一緒に住んでいたから、賑やかな、明るい家庭でした。

農家なのであまり裕福ではなかったと思うのですが、祖父母が教育の必要性を知っていて、当時としては珍しく、父も父の弟や妹も5人全員が高等学校以上を出ています。

代々、寺総代だったり、曾祖母が、「お大師さん」と呼ばれるほどの信仰深い人で、信者をつれて四国八十八ヶ所巡りを何度もしたというような家系です。

 

私が子どもの頃は、姫路や阪神方面から、行商の人が、干物の魚やおかずやお菓子を持って週に一,、二度来ていましたが、昼を新田家で取るように時間を調節してやってくるという家でした。

周りからの信頼もあり、人との交流も多い家だと子ども心に思っていました。

 

そんな新田家の跡取りとして生まれた私は、叱られた記憶がないくらいに、大事に育てられました。私は誰とでも気軽に話をするし、明るいし、友達も多いし、そこそこ勉強も出来、児童会長や生徒会役員などもしていたので、世間からは模範的な子どもと見られていました。

 

しかし、そんな私は、じつは3歳から、人間関係で悩んで生きてきたのでした。

 

他人の目が気になるのです。

 

どのように他者と接したらよいかがよく分からないのです。

どうせ自分のことは分かってもらえないという思いが常にありました。

 

秋には、屋根から柿の木に登り、柿をかじりながら、ひとりで山に沈む夕陽を眺めるのが好きでした。そんな孤独なイメージの少年でした。

 

 心のイライラを他人には見せないけれど、中学生のころに家族に向けた時期がありました。ともかく腹が立つのです。

「早くご飯を食べなさい」「遅かったわね」などの家族のちょっとした一言で、ムカッとするのです。

理性では「こういう言動はまずい」と思っているのに、感情が暴走するのです。どう自分をコントロールすればよいのか分からないのです。時にはお膳をひっくり返したり、家族に手を上げることもありました。

 

ひとりで反省しては、また家族に暴言を吐く日々に、やはり自分は家族とさえもうまく付き合えないという想いを強めていきました。

だからでしょうか。大学に行くことをきっかけに家業は弟に任せて、故郷を出てしまったのです。

 

 

大学は教育学部に籍を置きましたが、教師になるつもりもなく教育学部を受験するつもりも実はなかったのです。貿易の専門学校に行って商社マンになる予定でした。ところが、頼みもしないのに高校の担任が、教育学部に入れば毎月8000円がもらえる奨学金の手続きをしてくれたのです。当時、大学の毎月の授業料が1000円で、4畳半の家賃が5000円の時代ですから、8000円はかなり魅力ある金額でした。「大学に行ってお金をいただけるのだから教師にならなくてもいいから教育学部に行け」という家族全員の勧めで、受験したのが三重大学でした。

 

実は三重大学があることも、高校三年生の9月まで知らなかったのです。受験科目が一番少なくてよい教育学部(当時は学芸学部)を探したら、三重大学と高知大学が見つかりました。 仕送りを当てにしないでアルバイトをしよう、と思ったので、アルバイトの多そうな三重大学を受験したのです。

 

さて、なぜ教師に成るつもりがなかったかを、お話ししなければなりません。

私が小学校で児童会長をしていたときに、児童会担当の教師にみんなの前でやり込められ、悔しい思いをしました。それがトラウマになって、それから人前で話すのを極度に嫌いになり、中学になっても弁論大会の代表に推薦されても断るほどに臆病になった、苦い経験があります。

 

「教師は、ちょっとした軽い気持ちでも、一言で子どもをこんなに深く傷つける怖い仕事だ。だから自分には無理」と思っていたので、教育学部に行っているものの、将来は家庭裁判所か児童相談所に行こうと考えて、心理学を勉強していました。

 

まったく成るつもりがなかった教師ですが、三年生になって教育実習に行ったら、子ども達が可愛いのです。子ども達は可愛いので教師もいいなぁ。しかしこの子達を自分が傷ついたように傷つけるのは怖い・・・・・。どうしようかと悩んだ末に、ようやく教師になることを決意したのは4年生になってからです。

 

無事に教師になり、天職とも言える教師を、本当に楽しく21年間続けたのですが、講演などで忙しくなり、自習も増えてきたので、これでは子ども達に申し訳ないと、大好きな教職を辞し、より大きな立場で活動することにしたのです。

 

 

カウンセラーへの道は3歳の記憶から:

 

私の一番最初の記憶は、3歳離れた弟が生まれた日に始まります。祖母に手を引かれ、弟に会いに行った場面です。昔は自宅で出産するのが普通でした。奥の間で母の横に生まれたばかりの弟が寝ていました。それを見た瞬間に子ども心にあることを決意したのです。

 

「お兄ちゃんになったのだから、いままでのようにお父さんお母さんに甘えてはいけない。自分にはおじいちゃんおばあちゃんがいるから、お父さんお母さんは弟にあげよう」

 

なぜそんなことを決めたのか、この年になっても分かりません。もしかするといいお兄ちゃんになりたかったのでしょうか。

その日から両親のところではなく祖父母と寝るようになったのです。両親に甘えたい気持ちを抑えた日々が、始まったのです。

そんな自分に気づいたのは、カウンセリングを勉強するようになってからでした。

 

自分のように苦しんでいる人の心と魂を救いたいという想いで、心を扱う仕事をしている私の原点が実は3歳の頃にあったのです。

 

 

私が悩んできた体験と、延べ一万人を超す相談を受けている経験をもとに、

志あるリーダであるあなたが、周りの人とストレスなくよい人間関係を築くにはどうすればよいかをお届けします。

お付き合いをよろしくお願いいたします。

 

取り上げて欲しい内容やご意見をお待ちしています。

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