2006/10/09  

第3話 熱中時代(孤軍奮闘)

創造

 

今までにない新しいものを創り出す。

温故知新の心構えを持ち、改善に励む、何を継承するか、

何にフォーカスしたか。自らの視座を持つ。

 

大きな変化

 

突然おそった「販売の世界」。 製造主体ではなく販売主体の意識、同じ椅子にかかわる人達でも全く違った視点で話をしてきた。何が起こっているのか全く理解できない、いや受け入れられない。

今までやってきたことは、いかに正確にいかに簡易化するかという「作りの哲学」だった。

そして今、私は「売りの哲学」の世界へ組み込まれた。

油くさい鉄のニオイの中で育った私には、上品で美しくととのえられた売り場で椅子を売っていく、与えられた空間の中に調和する椅子を考え出すという全く不自由な世界へ足を踏み込むことになった。

良い椅子を創りたいという私の「良い」という言葉は、「売れる」にとって変えられた。

「良い椅子なら売れるだろう。売れる椅子が良い椅子なんだ。」という言葉が私にのしかかり、「良い=売れる」ということをずっと考え全く手がつかない状態となり、ひたすら「良い」という私なりの定義を掴む為、本を読むことに没頭した。

 

良い品、良い考え

 

世界一の椅子を創る為に入った会社であったが、 結局、この会社のブランド化という使命を負うことになった。

たくさんの情報を集めた、身動きがとれない状態の中でデザイン情報を集めた。

東京の情報は半端ではなかった。

日本全国、世界の椅子が氾濫している。

そして、その周辺情報は、椅子からインテリアデザインそして建築へとその領域は広がるばかりだった。

私が、今まで椅子の仕事で怖がっていたのは、椅子がラインに乗り生産化されることだ。

工場のラインの恐怖が街のウィンドーの恐怖に変わる。

こんな中に自分の椅子を展示する。何をどうしたらいいのか、どうデザインしたら良いのか、やはり売れるのが良いということなのか、と日々苦悶していた。

とにかく本を読む、とにかく売り場へ行く、雑誌に載ったレストランへ行く、ホテルに泊まる。

(1)「ど真ん中で考えよう」 (2)「洗礼を浴びよう」 (3)「そこの場所で体感しよう」と思った。

この時期のデザイン活動としては建築家との仕事、ゼネコンとの仕事が主でした。

ある大学の図書館の仕事で所長に褒められた。「良い品だね。なかなかこの手が作れるメーカーはいないんだよ。結局、君の考え方がいいんだよ。」「先生も満足してらしたよ。」と「考え方」を褒められた。

「良いモノ」を創りたいというあせりと葛藤が「良い考え方」という評価を得た。

私は建築家が欲しがったモノを創っていたのであった。

私は「良い考え方」を売った、と思った。それは、今までの考え方と改良と改善だった。

他のメーカーから「あなたの会社だから良いけれど、うちでは無理だ。」と言われた。

何を改良して、何を改善したのか、自分のしたことと、評価されたことを書き出した。「見えた」「つながった」デザインを売ったのだ、「良い」を売ったのだ、 デザインされた空間を作ったのだ。

「良い」と「売れる」の関係とデザインのレベリングができた。最初に入った会社の社長がいった「セット販売」「トータル販売」の意味が少し分かった。

そのことは、デザインが可能にすることなんだと、「トータル・デザイン」が見えた。

何にフォーカスするか

 

水之江先生に呼ばれ東京へ来て3年、自分が「世界一の椅子を創る」というところから、「東京になじむ、」「東京を知る、」「販売の世界」というものにドップリつかっていた。

水之江先生は相変わらず「椅子の後脚をネ、どうしようかと思って、どう思う?」という話しがもっぱらだった。

しかし、そんな会話をしているうちに「こうされたらどうでしょうか。」「こう考えたらどうでしょうか。」と返事をするようになっていた。

建築家との仕事が中心になっていたので、いつしか

椅子についての説明・歴史・系譜について「椅子のコンサルタント」的な役割をはたしていた。

五年間の修業が、私の椅子の企画・製造・販売をデザインという視点とデザイナーという行動によって育て上げていた。

「バランス」というキーワードが自分の身に付きだした。

ある日、建築家から「椅子のデザインは分かるのだが、作り方が分からないので協力して欲しい」という話しがきた。この椅子が東京に来て初めての椅子のデザインになっていくとは自分でも思っていなかった。

建築家の意図は理解した。お願いした。「私流でいいですか?」「まかすよ。」と言われた。

自分流イコール「私の考え方」、この時から今日まで続いている。

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