2006/11/13    

第6話 フリー修業熱中時代

初心に帰る

 丁度この時、その百貨店は新しい事業部を立ち上げていました。商品開発課というセクションでした。「俺を手伝え、悪いようにはしない。お前のその甘ったれた考えを直してやる。徹底的に指導してやる。」ひどい言葉でした。

 しかし、10年近くT氏とは関係がありました。以前も、外商部立ち上げで共にキャラバンをさせていただきました。その時、私はT氏に信用できる人という印象が残っておりました。

 そして、間違いなく本店の中に外商部が立ち上がり、再度新しいセクションの立ち上げをするという話しでした。

 素直に「ハイ!」という返事はできませんでした。そのまま事務所を出ました。再度、T氏を訪ねました。

 「おおやる気になったか?お前のその弱さをまた立て直してやる」

 それから2時間近く一方的に話された。様々な言葉が自分を崩していった。そして、様々な言葉が自分に気付きをくれた。人間として許せた。そして尊敬できる人と思った。この人といると何か「安全」を感じた。

 初めて自分に「安心な場」を感じた。

 T氏は私のボッとしているのを感じて「うぬぼれてるんだよ。何にも分かってないのに、分かったふりして」とカツを入れられた。そしてその日、二人で寿司屋に行った。酒豪のT氏は酔いにまかせて、激しい言葉を浴びせた。

 「オイ、帰るぞ、割り勘だ!」と言った。

 そして、「五分の付き合いをするから割り勘だ!」と言われた。

下駄箱

 T氏から「家具の仕事がしたいだろう」と言われた。

 「ハイ」と答えた。

 「インテリア部で下駄箱のデザインで困っているからお前を紹介しといた。デザイン料は5万だぞ」。

 下駄箱をデザインした。T氏が「何を考えてるんだ。下駄箱だと思ってナメてるんじゃないぞ。」と怒られた。「豊田、デザイン(仕事)というのは豊田広志の名と責任においてするもんだ。これが豊田広志のデザインだと人に言われていいのか」とも言われた。

 「名と責任のもと」 初心に帰った。

 仕事のプロセスを徹底的に指導された。

 「豊田、人間はやる気とかわいげと素直さが必要なんだ。それを肝に銘じとけ」 いつしか、「お前」「テメエ」ではなく「豊田」と言われるようになった。この人のすごさはずっとこのまま続いた。

 「名と責任」と言った後からは必ず「豊田」と呼ぶようになった。

 

聞く

 あらゆるジャンルの仕事をする。クライアントの要求を解決していく。二人の仕事はこのまま3年続く。33才の時、T氏から「豊田、皆と酒を飲め」と言われた。「嫌です。」と答えた。無理矢理酒の席が用意されていた。酒を飲みながら話しをする。目が廻る。嘔吐した。気持ち悪い。家に帰った。何度か繰り返すうちに、酒に慣れた。

 人の話が聞けるようになった。様々な話しが飛び交っていた。

 T氏に言われた「100人以上の人間が同じ部で働いているんだ。皆がそれぞれ一所懸命働いているんだ。自分は知ってる、正しいと思ったら大きな間違いだ」話しの中に色々な会社の名前が出てくる。知ってる会社だと思った。まったく知らない会社が出てくる。

 「その会社有名なんですか?大きいんですか?」

 「ああ一部上場でこの業界では?.1だよ」と言われた。

 「外商部では一人何社ぐらい担当しているんですか?」「一人5・6社かな。多い人は30社持っている人もいるよ」1000社ぐらいとつきあっている。

 すごいと思った。そして、まさかそれが自分にかかわってくるとは思わなかった。ハンカチのデザインをする。茶碗・灰皿をはじめ化粧品会社・飲料品会社・薬品会社・電気会社・自動車会社・銀行など様々な販売促進商品のデザインをした。1日おきに徹夜になった。徹夜のない日は皆と酒を飲んだ。色々な相談がくるようになった。この百貨店だけの仕事になった。

 「豊田、外商はキンギョから飛行機まで売るんだ。

 一人の知識では追いつかないんだ。」

 

企画書を書く

 企画書を書き出す。T氏の指導のもとに「多面的に」「幅広く」「科学的に」そして次には「絞り込め」「訴求力がない」「いいか、これからは1行あけて書け」といわれた。行の下に添削が書かれた。そして、やっとOKがでる。それから、徹夜でデザイン画を描く。こんなことが長い間続いた。セクションの形も整ってきた。

 「豊田、プランナーになれ!これからはプランナーが必要だ」

 「デザインは?」 

 「自分でしたければ、すればいい」

 「それから、専属デザイナーの肩書きと契約を会社に話している」と言われた。

                        つづく

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