2006/12/11  
2008.08.11   

第7話 もう一つの試練

当時のわれら芦原門下の内弟子が拠点とする寮の名は「若虎寮」。これは東京の極真会館本部にも内弟子の寮があり、その名を若獅子寮と言うので、その向こうを張ってつけた名です。「本部には絶対負けまいぞ」と、意気込みは猛烈なものがありました。

 

全日本選手権大会でも、本部の内弟子たちとの戦いに的が絞られ、その東西の内弟子同士の戦いはいやがうえにも盛り上がり、見るものを酔わせました。

 

ステップを踏んで相手の攻撃をかわし、相手の死角へ回りこんで攻める四国の芦原門下勢に対し、ひたすら前に出て叩きまくる猛牛のような大山門下勢。片や空を飛ぶ鳥のように・・・片や地を這う獣のように・・・その戦い方がまったく相反するので、フルコンタクト空手のオタクらにとっては、四国対本部の試合はいつも話題の的でした。

 

しかし、いくら頑張っても、必ずわれら四国勢の判定負けと言う結果に終わります。なぜならどうしてもルールの壁を乗り越えることが出来ないのです。

 

もともと、この全日本選手権、顔面の強打と金的攻撃以外はOKと言う、最初の頃はかなり大雑把なルールで行われていました。しかし、四国勢が活躍するようになってからルールがかなり詳細に設けられ始めたのです。そのルールを作るのが本部であり、大山館長であったのです。

 

掴むな、背後へ回って攻撃するな、顔面への攻撃をするな、肘打ちをするな、サポーターは禁止・・・など徐々に規制が厳しくなりました。その規制の増加は芦原門下を勝たせないためであることは眼に見えていました。

 

掴みと背後へ回っての攻撃を主とする我々四国勢は、審判から度重なる反則の減点を取られて、いくら優勢に試合を進めても結局判定負けとなります。

 

それなら勝負に勝つための稽古ではなく、試合に勝つための稽古をすればいいのではと思われるでしょうが、芦原先生はそんなことに無頓着な人でした。ひたすら実戦的な技を追及しての稽古を私たち内弟子に課してきました。もちろん私たちは、その先生の意思に従いました。

 

本部の人たちも、少しずつわれわれのテクニックを真似しだしました。例えば構え方一つにしても、私たち四国勢はグローブを着けてキックボクシングの稽古もしていましたので、ガードの高い顔面への打撃有りのスタイルで構えていました。

 

本部の空手は大会で勝つための空手でしたから、顔面攻撃禁止のルールをいい事に、いつも顔面はノーガードでした。ですから、ちょっと顔面にパンチを出すカッコウをしてもあっけないほどすぐ当るのです。

 

考えたら妙なものです。実戦ケンカ空手を唱える天下の極真が顔面攻撃に弱いとは。こんなこと人に知れたら大変です。(最も現在の極真は随分レベルをあげています)

 

このように、私たちの独特な構えから繰り出す突きや蹴りは速くパワフルでした。それで本部もいつの間にかこの構え方を真似し始めました。また、ステップを使っての蹴りや防御など、今でこそ、この業界では当たり前のように皆がやっていますが、当時はどこの空手もこういった垢抜けた戦法はやっていませんでした。

 

自分で言うのもなんですが、われわれのやっていた空手が、当時の空手界において群を抜いた先進技術をもっていましたので、本家の極真会本部をはじめ、多くの打撃系格闘技界には密かに注目を集めていたようです。そういった意味で、芦原先生は日本の格闘技界に大きく貢献していると思います。

 

またまた話が脱線しました。さて、このように東西の内弟子どうしが鎬を削って日本一を目指していましたものですから、その内弟子たちの生活の拠点である寮の存在は大きいものでした。なにせ衣食住あっての稽古です。

 

芦原英幸を慕って日本中から集まったわれわれは、自分たちが集まってともに切磋琢磨できる梁山泊を作ろうと思い立ち、まず行ったことは、安くて広い借家を探すことでした。仮にも内弟子と言われる立場を得たのですから、命がけで稽古をしようと覚悟を決めたゆえのことです。

 

そして、とうとう念願かなって、べらぼうに安くて広い寮を見つけたのです。ちょっと古い建物ではあったものの我々は喜びました。早速、散り散りばらばらに住んでいた内弟子40名は、この新しい古い寮に引越しを始めました。集団生活の始まりです。

 

建物は木造で、部屋は全部で10室ほどありました。食堂部屋や、会議室もありました。裏にはうっそうと草木が茂る庭がありました。元病院と聞いていましたので、それでこのような間取りになっているのかと感心しました。

 

さて、全員がその日のうちに引越しを終えました。人数が多いので班毎に別けて部屋割りを行いました。寮長も決まり、やれやれ・・・と落ち着いたその日の夜に事件は起きました。

寮長の「消灯!」で全室の灯りが消され、皆が寝静まった夜中のことです。二階の廊下でどかどかと誰かが歩く音がします。「誰だ!こんな時間にうるさいな!」と、ある部屋の者が戸を開けて怒鳴りました。その声に私の部屋の者数名が目を覚ましました。しかし「あれ、誰もおらんな・・・」と言っています。

 

それで眼が覚めた別の者がトイレに行きました。トイレは廊下の突き当りです。彼が行ってしばらくした後「うわー!」と叫び声がしました。「どうした!」と我々はトイレに向かうと、そこにさっきトイレに言った男が青い顔をして震えていました。

 

「いま俺が用をたしていたら、そこの大便用の戸の中で声がするので開けて見たら人が立っていたんだ」と言います。「どこに?」と我々も恐る恐る行くと、なんと本当に人が立っています。「あんた誰・・・」と言う間もなく、その人は消えてしまいました。

 

我々は夢でも見ているのかと、顔を見合わせました。どう説明したらよいのでしょう、こういった不思議な出来事は遭遇すると怖さを越えてしまいます。まんじりともせず、私たちはとりあえず自分の部屋に引き返しました。気のせいだろう、と思うようにしました。

 

そして、稽古の草臥れもあって、怖いことも忘れてすぐ寝付きました。それから一時間ほど経った頃でしょうか、何かが部屋の外からこの部屋に向かって近づいてくる気配に私は眼が覚めました。眼は覚めているのですが、どうしたことか体がまったく動かないのです。

 

こんな妙な経験は初めてでした。それで、廊下からスウ〜っと戸を開けて、この部屋に入ってくる者がありました。ちゃんと、廊下を歩く音、襖をあける音などがしました。(後で確認したら、襖は開いていなかった)

 

『誰だろう?』と起きようとしても、固く硬直した私の体はまったく動きません。眼だけがぎょろぎょろと動くのです。やがて、その侵入者は私の布団の足の方から、こともあろうに布団の上に上がって来ました。そして、私の胸あたりに立ち尽くして私を上から見下ろしています。

 

見ると白い着物を着た女性です。これは明らかにこの世の者ではないことが分かりました。私とその人?と眼が合いました。今でもその顔は覚えています。長髪でした。大きな眼はもの悲しく何かを訴えているようでした。(後になってこの幽霊の訴えたいことは判りました。それは後述します)

 

実は、私はこういった、いわゆる幽霊と言うものは初めてではありませんでした。それは私が幼稚園に上がる前の幼い頃のことです。

 

道路を横断した兄を追いかけて、続けて飛び出した私は、大きなトラックに衝突しました。しかもそれはひき逃げでした。私は頭蓋骨骨折で内出血という、瀕死の重傷を負いました。

 

救急車で病院に運ばれ、一ヶ月ほど意識不明の状態が続きました。そして手厚い看護のおかげで奇跡的に息を吹き返し、しばらく入院して元気になってやっと退院しました。

 

さあ、それからです。自宅に帰ってからと言うもの、夜、寝床に入って寝ると、毎日必ず同じ夢を繰り返し見るのです。これは頭部に強い衝撃を受けたせいかとも思いました。

 

その夢はかなり現実味を帯びていました。暗闇に大小さまざまな歯車が回っていて、それにチャップリンの映画のように体ごと巻き込まれていく夢でした。

 

もう、その世界に入るのが怖くてなりませんでした。その夢を見るのが嫌で、寝ること自体が恐怖でした。しかも、夢だけではなく、家の中で幽霊たちが見えるのです。これは小学校時代までずっと続きました。

 

このことは両親に言ってもとりあってもらえませんでした。父などは「幽霊より人間の方が怖いで。なんでや言うたら、幽霊は騙せへんけど人間は騙すからな、ははは」と笑うだけでした。

 

10歳で空手をはじめた時、なぜか怖い夢も幽霊も見ることも少なくなりました。しかし、18歳で空手の内弟子に入って、またもやこのように幽霊に遭遇するとは思ってもみませんでした。

 

話を戻します・・・その布団の上に立ち尽くす幽霊は私に何かを訴えて消えていきました。同時に私の体は楽になり自由に動けるようになりました。起きてすぐ隣に寝ていた同僚を起こし「おい、いま出たぞ」と言いましたが、「何が・・・?」と彼は寝ぼけて言います。「幽霊や・・・」と言うと「ふ〜ん」と言って、また寝ました。私もあまり気にせず寝ました。

 

このようにみんな無神経なと言ってもいい位な豪傑ばかりでした。しかし、その豪傑ぶりも時間の問題でしたが・・・。

 

あくる日の夜のことです。稽古を終えてみんなで食事をとりながら「おい、夕べこんなことあったんやけどな・・・」と他の寮生たちに話をすると「へえ〜、お前もか、俺も見たぞ、俺のとこはこんな感じの・・・」とジェスチャーで話し始めました。なんと同じような現象が同時刻に各部屋であったのです。

 

そして、食事が終わった寮生の一人が「ご馳走様!」と言って部屋を出、階段を勢いよく駆け上がって行きました。しかし、すぐドタドタドタと階段を急いで駆け下りて部屋に戻って来ました。

 

彼は、ハアハアと息をしながら青い顔をして「い、い、今そこにいる、か、階段の途中のところに・・・」と恐怖に慄きながら部屋の外の階段を指差しています。われわれは大勢で「どれ・・・」と階段の上がり口に行くと、本当に階段の途中に幽霊が立っていました。幽霊は間もなくすうーっと消えました。

 

その夜、消灯後のこと、廊下で歩く音、柱や天井からパンパン、ピシピシ・・・と弾くような音がしだしました。そして、闇の中からぼしょぼしょと話し声が聞えてきます。それは寮生40名全員聞きました。続いて各部屋から悲鳴が聞こえ出しました。

 

「うわ〜!」「えっ〜!?」など、あちこちの部屋で寮生の叫び声が上がりました。しばらくすると音も声も止み、心配になって「大丈夫か?」と私は様子を伺いにいきました。「いま白いもやの塊りが、いくつかこの部屋にいた。それで消えた・・・」目撃した者たちは唖然として立ち尽くしています。

 

ある日のこと、新入りの内弟子志願者が先生に連れられてやってきました。「おまえら、こいつのことよろしく頼むよ」と先生に言われ、「押忍!」と返事をした後、我々は「ニッ」と顔を見合わせました。思いは同じでした。『この新入りにはあの部屋だ』と目で合図しあったのです。

 

「今夜はこの部屋を使え」と寮長が一階の大部屋を新入生に指示しました。「ありがとうございます」と荷物を運びこむこの男、体はがっちりと大きく度胸がすわっていそうでした。自衛隊を辞めてここへ来たとのことです。「頑張れよ、じゃ、今夜はぐっすり休め」と言ってわれわれも部屋に帰りました。

 

さて、あくる朝、寮長はその男に聞きました。「夕べはよく眠れたか」「押忍、それが夜中にどこから来たのか、天井に蛍がいっぱい飛んでいて眠れませんでした」「おまえ、いま何月やと思ってるんや」「えっ、じゃあれは?」と言うので本当のことを言うと彼の顔から血の気が引いていくのがわかりました。 

 

その一階の大部屋とは、もと手術室で、夜になると必ず火の玉が出る場所なのでした。 もちろん新入りさんは、我々が昼間出かけている間に、荷物をまとめて逃げて帰りました。

 

さあ、このまま放っておくわけにもいかなくなった我々はある行動に出ました。

 

この続きは次回に・・・

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