2008/02/26 
2008.12.01 

第23話「武道歴40年を越えて」

稽古とは、いにしえを、思い考えることと申し上げました。

それは、先人たちが何を、どのように思い、工夫を凝らしてきたか、それを何に向ってやってきたのかを考えることだと思います。

いにしえと申しましても、昨日もすでにいにしえですし、去年もそうです。また100年前も、1000年前もいにしえです。

いにしえ(古)も、どこまでのいにしえなのか、それは人により様々ではないかと思います。一般の武道における、いにしえとは、現今では武家社会に発達した技術を手本としているでしょうから、鎌倉、室町時代になろうと存じます。

和良久における、いにしえは、その起源を古事記の天の沼矛におきますので、神代ということになるでしょう。

そうなれば、具体的に眼に見える手本など存在しませんので、言霊学の助けを借りるしかありません。しかし、言霊の理念を引っ張り出すにしましても、それを受け入れるハードがしっかり整っていなくてはなりませんので、ある程度相違があっても、現代武道で下地を作っておくことも必要です。

私は、いままで行ってきた稽古(空手)が、和良久を受け入れるのに適したものではなかったと、勝手に判断を下してきました。それは、空手が戦闘的であり、体に無理を強いて鍛錬する稽古であるからでした。

戦わず、体に優しい和良久とは、まったく相反する武道であったからです。ですから、空手は間違っているなどと、和良久をよく見せるための非難材料にしていたのです。善をより善に見せるために、悪役が必要だったのです(見苦しい)

「格闘技を廃止させ、和良久に清き一票を!」

これじゃまるで相手を罵りまくって自分を正当化する選挙戦のようなものですね。

よく考えれば、この世に無駄なものは何も存在しません。神様が必要あって創造され、姿を現したものばかりです。

何につけ、空手のおかげで、私はこうして和良久に出会えることが出来ました。空手がなかったら、きっと私は、もっと弱虫で卑怯な男のままであったろうと思います。

空手との出会いが、私の心を鼓舞し、より高く、より大きくと前向きな気持ちを育ませてくれたのです。そして、もっと、もっと・・・と人一倍の欲をもって歩んだ末に行き当たったのが剱の世界だったのです。

しかし、いざ、空手を脱却し、剱の世界に没頭するようになった現在はどうでしょう。 空手に対する嫌悪感をあらわにし、あたかも和良久以外の武道は極悪非道の術のように言い放っている、いい子ぶった自分がここにいます。

それは、強くなれよと、いままで厳しく育ててくれた親を離れて一人立ちし、気高く優しい師にめぐりあったとたんに、前の親の悪口を唱える愚者のようなものではないか・・ふと、こう思うのです。

私の中に、消えないものがあります。やんちゃな心です。

やんちゃな心は空手とともにありました。

大人になり、それどころか、もう良い年齢になったいまでも無邪気なその部分は、子供のときとまったく変わりません。

それを無理に消そうとすると、あたかも過去を否定するような気がして、心痛む思いがいたします。

50を過ぎ、少し人生を振り返る余裕が出来た今、その心は今でもまだ健在かと自問自答してみました。やはり、やんちゃなその心は健在でした。

ここだけの話、いまでも誰もいないところで思わず「エイ、ヤー、トー」と空手の型をやってしまいます(シー・・・内緒です)

空手の道に生きたのが、凡そ20年。そして剱の道が20年。丁度、素手、剱ともに、五分五分の経歴を有するようになる年齢に達しました。

言葉に尽くしえませんが、こうして全く相反する理念をもつものを、同じだけ経験させていただいて初めて分かることがあります。ようやくに、この狭間の時期に立って思いますことは、ただただ感謝の念のみなのです。

空手に対する感謝。戦ってきたライバルに対する感謝。

剱に対する感謝。師に対する感謝。

両親に、友に、妻に、子供たちに、そして、稽古人さんたちにも。

武道歴40年を越えて、ようやく関わりあったすべての人たちへの感謝の気持ちが心から沸いてまいりました(気付くのが遅いですね)

かといって、和良久の稽古人さんたちには、また空手をおっぱじめるのかと懸念されるでしょうが、和良久のことで精一杯でそれどころじゃありませんので、ご安心を。(私は和良久は究極の武道であると認識しています)

でも、空手も私の肉体の一部になった以上、これを負に思うのではなく、プラスに考えて、大いに活用するつもりでおります。そうすることによって、より大いなるステップがあるように思うのです。

大事なことは、何をやっているかではなくて、何のためにやっているかと言うことなのだと思います。心の欲するままに従えども矩をこえず、と言うことを心得、大いに夢を追いかけていきたいと思います。

言霊の法則は、こういったことも教えてくれました。

私としては、これからの稽古のあり方も、厳しさを寛容さで包んでいくことも学ばねばなりません。

思いや、心の空間の許容量を歳とともに狭めず、増やすこと。コンピューターも、容量を増やせば、固まることも無くなり、機械が円滑に動きます。

稽古で、だらだらしているのであれば容赦できませんが、それぞれが、精一杯、一生懸命やっているのであれば、技が上手に出来る、出来ないは問題ではないと思います。

言霊の法則は「一生懸命」さを旨とします。

難しいことは、それが分かる人に任せてもけっこうではないか、と思えるこの頃です。

いくら言っても出来ないのに、やれやれと無理強いするのも気が引ける昨今です。

法則を継承しようという志をもった者に、決して妥協を許さない心技を厳しく伝えることで全体のバランスをとっていけると思います。

天の御用を拝命し、人それぞれ、その人にしか出来ない何かを授かって、この世に生まれた私達人間です。それぞれが、それぞれであっていいのしょう。

和良久の稽古が、それを探る一助になれば幸いであると思います。

 

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