2009.05.11  

第32話 「お互いを認め合って」

1、礼儀は武道から生まれた作法

礼儀作法は、たゆまない武の練磨の過程でうまれた、実に美しい日本文化です。

なぜ礼をするのか。なぜ手をつくのか。眼の位置は。足の運び方は。その足は場によって左右どっちから動くか。それらは、磨きあげられた武の技の一端であり、すべての所作 には、はっきりとした技を成立させるための理由が存在します。

礼の作法は、綺麗だからという理由だけで出来たのではありません。むしろ機能的であり実践的であるから出来たといえます。その極められた体の動きは薫り高い日本の伝統を感じさせます。

調べれば、武道はあらゆる芸術の元となっていることにつきあたり、それを知ったいま、稽古の時のみならず、一層日常の生活の中でも気をつけて身を処していかねばと覚悟を新たにしました。

2、礼は心をもって

ただ、頭を下げるだけでは礼にはなりません。礼は、霊をもっておこなってこそ相手の心に浸みこんでいきます。体の礼を正す前に、心の霊を正して所作に臨むことでしょう。

礼は儀式であり形式で、これは顕祭です。霊は、心を鎮める幽祭です。幽祭と顕祭が一致して初めて正しい礼が成立します。

祭典には祝詞を奏上します。その祝詞に当たるのが礼においては「挨拶の言葉」です。祝詞の奏上は、神を言祝(ことほ)ぎ、万物の生育を促します。神に対するごとく人に対せば人生は即ち祭典そのものになります。

人に対しても祝詞の文句のように「恐み恐みも申す」という気持ちになれば言葉も立派な祝詞になり、きっと人々の心にしみわたりましょう。

3、心のこもった言葉〜言霊

言霊は決して言葉を飾ることではありません。また音の美しさを誇るものではありません。美しい音声で綺麗な言葉を並べたとて、それが決してベストな言霊というわけではありません。

悪魔も言霊を発します。悪魔は声も姿も神を装って人を誑かします。
 
 言霊は神の力です。神様の存在をしっかり把握し、信仰心をもって言霊を理解しないと結局悪魔の虜となってしまいます。言霊は信仰することによってのみ効力を発するものです。面白半分のパフォーマンスは魔道に陥るきっかけとなるので充分気をつけなければなりません。

言霊の構造は、神様の紋章と同じです。図で描けば「・」に「○」です。
「・」は霊、すなわち精神を表し「○」は水、すなわち物質を表します。

言霊の発生は、「・」から「○」の順番です。
まず心(霊)の中で語りかけ、そして音声(水)に変えて言葉に出します。心で語れてこそ言葉は言霊になります。

そして言霊は力を現し、やがて形となって物質化します。

「・」〜火…霊
「○」〜水…体
「◎」〜力…八力(凝解分合動静引弛)
「□」〜姿…三元(剛体・柔体・流体)

このように、思いからすべてが始まります。これをはっきりと体系化したのが日本武道すなわち神道です。

(日本(ひのもと)とは「・○」と書きます。武は火凝(ほこ)を中心に止めると言う意味で、いずれも「神」ということです。武は神の力を人が学ぶ道です)

「心にもないことを」と言いますが、心に語ることによって「心のこもった」言葉になります。心のこもった言葉は、きっと相手の心に深く浸みこむことでしょう。心の会話は天国の会話です。

4、心得たい二つのこと

道で誰かに遭遇しましたら、まず眼を合わせます。眼が合ったら次に笑顔です。

礼儀作法はなにも知らなくても「眼を合わせる」「笑顔」という、この二つさえできれば立派な礼儀になります。

近頃、眼の前を通り過ぎても、眼も合わせない不思議な人種がおられます。
例え、相手は見知らぬ人でも、一瞬でも眼を合わせるくらいのことはあろうものです。

獣でさえ眼は合わせます。人は獣以下になったのでしょうか。

5、人への挨拶

以上の二点は、相手のことを知っていようが知らなかろうが、人としてもっていたい常識です。そして、次に相手が知らない人であっても、もし眼が合ったならば会釈くらいはしたいものです。

顔見知りであれば、笑顔のあと行うのは挨拶です。相手に対し、頭を低くし礼をします。礼に言葉を添えます。

「おはようございます」

「こんにちは」

「こんばんは」

もし、相手が同僚であれば、礼をしながら通り過ぎる「屈行(くっこう)」でよいでしょう。目上の方であれば立ち止まって挨拶をします。

恐れ多い方であれば、自分が左側に寄って相手に道の正中(真ん中)をゆずり、自分は道の端に避けて挨拶をします。そして相手が通り過ぎるのを、もう一度頭を下げて見送ります。相手が通り過ぎたら、こちらも動き出します。

この礼法は、武家社会の礼法ですが、現代にも通用するのではないかと思います。

6、神の作法と人の作法

自分は目下だから、いつも上に対してペコペコしなければならない・・・というのは礼儀ではありません。礼儀は上下の差別のために起った文化ではありません。

むしろ上の立場になればなるほど礼儀に一層気をつけるべきでしょう。

もし「私は偉いから人は頭を下げるんだ」などと思うような上位の方がいれば言語道断です。礼儀は、人として大切な「相手を認め合うための確認」のような儀式です。

神道に祭式というものがあります。これは神様と人とを結ぶための作法を学ぶものですが、人の世界にも祭式があってしかるべきです。人の祭式が礼法と言えます。

しかし、悲しいかな神様への作法は出来ても、人への作法がまったくなっていない方もいます。これは宗教の世界に多いものです。

逆に人への作法を心得ていても神仏への作法が無い方もいます。これは伝統芸術関係者に多いのではないでしょうか。神の作法と人の作法。どちらも大切です。

この世は神と人との祭り合せのために出来た世界です。
神への礼儀、人への礼儀、また自然への礼儀を見直せば、あるいはこの世の乱れは止み、もとの清清しい世界に戻るのかも知れないのではと思います。

 

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