2011.03.21      

第55話 「重要な気迫」

1、形ではなく魂のほとばしり

武道において最も大切なのは、技の上手下手ではなく、気迫のいかに充実しているかです。確かに技は、相手からの力を直接避け、こちらの力を有効に入れ込む方法をもっています。また、いたずらに労を費やすことなく、要領よく物事を処理していくことができます。しかし、形にばかりとらわれていては、結局肝心な部分が欠如してしまいます。

世の中には、確かに間違ってはいないのだけれども何かもの足りない・・・という人がいます。ものづくりでいえば、しっかりした形には仕上げるのだが、魂に迫ってくるようなパワーを感じられないというようなものです。いわば、仏つくって魂入れずという感じです。逆に下手でも、何か温かみを感じる、あるいは鬼気迫るものを感じるといった、何かの雰囲気というものが伝わってくるのがあります。

私たち武道家は、神から与えられた最高の素材であるこの五体を使って、最高のアートを後世に伝えていくことがその使命の一つです。私たち「ひと」の魂の勢いがほとばしる姿こそ、神の最も喜ばれることではないかと存じます。

2、武道は気迫

技術や実力があるにも関わらず、本番に弱く、また相手の迫力にのまれてどうしようもない方がどこの世界にもいます。技は知っていても本番でそれが使えなければ話になりません。大本三代教主様は「武道は気迫やで」とおっしゃいました。それを直接うかがった奥山先生は、その気迫というものを求めて武の道に一層精進を重ね、答えを言霊に求めたのでした。和良久は、このたった一言の言葉である「気迫」の追及により生まれた武道といってもよいと思います。

さて、気迫とは何か?

まず気は、「水と火」のぶつかりによって生まれるエネルギーです。迫は「圧」です。圧は膨縮圧ともいい、膨らみ、また縮む宇宙の営みです。それは命そのものの姿です。要するに気迫とは、水火の活動力のことであり、エネルギーの強さといってもいいと思います。
和良久はこのエネルギーを体内に取り込み、パワーに変えるシステムです(言霊剱の行事〜天津金木、天津菅曾、天津祝詞により宇宙の霊力を呼び込む)。

気迫があると、ただそこに存在するだけで、周囲に圧倒的パワーを感じさせます。つまり「私はここにこうして立っているだけでいいんだ」ということになります。存在感があるかないかはこの気迫の強弱によります。

3、大機大用

武道の文献で調べますと、以下の柳生新陰流の兵法書の表現が気迫をあらわすに
最もあっているのではないかと存じます。

 「よろずの道に心がけがつもり、功がかさなれば機が熟して大用(だいゆう)が発するなり、機が凝り固まり、居固まれば用がなきなり、熟すれば全身全霊に伸び広ごり、手にも足にも、目にも耳にも、その所々にて大用が発するなり、この大機大用の人にあふては習いのたけを使う兵法は手をげることもならぬものなり」

私なりに解釈しますと・・・ひたすら稽古に精進し精神的にも、肉体的にも熟達してくると気の力が丹田を中心にして活発に活動をおこし、全身がエネルギーの充足感に満たされます。この気の力が体内の一所で停滞していてはこの現象はおこりません。エネルギーが満ち溢れてくると、手や足、また目や耳になど全身のあらゆる部分から外に向けてエネルギーが解き放たれます。こういった大いなるエネルギーを保有する人に対しては、既成の技しか知らない武道家たちはぴくりとも動くこともできません・・・ということです。大機とは「大いなる気」、大用とは「大いなる活動」といっていいでしょう。このように気が充足している者に対しては「気迫に飲まれる」という状態になるのです。

この内容からわかるように、技の稽古によって何を得るのが目的かといえば、やはり大いなる気の充足、すなわち神力〜宇宙の大霊力なのです。和良久の稽古は、柳生の云う「大機大用」の人となるための稽古なのです。和良久の稽古で技を鍛えに鍛え、気を練りに練って大機大用となった者たちが世界の各所に配置されると一体どういうことになるか、私はいまからわくわくいたします。
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