2011.09.05      

第64話 「山中稽古の注意」

1、山は生き物

稽古人は、稽古場での稽古のみならず、剱を振るえるところがあると、まるで水を得た魚のように稽古をし出します。これは稽古人の性というものでしょう。稽古場で行う稽古は、緊張した雰囲気の中で行いますので、言わば試練の場でもあります。そういった緊張の場から離れ、一人で気の赴くままに木剱を振るのは実に楽しいのもです。ことに、大自然に身をまかせて言霊剱を行ずることは宇宙を感じる絶好のチャンスでもあります。

遠い昔から、志を立て、武の技を極めんと欲して山にこもる修行者がいます。稽古に入る山は古来より由緒ある霊山として名のある場を選びます。そこにおいて日夜神明に祈願を凝らしつつ滝に打たれ、崖をよじ登り、風雨雷神に身をまかせ、木々を相手に命をかけて技を練ります。

山の奥はまことに不思議な空間です。山は、鉱物、植物、動物の三元が一つになった集合体ですので、山そのものが一つの生き物といっていいと思います。山は大きな熊のような生き物です。霊山に熊の名がつくところが多かったり、古来より熊を神と読んだのもうなずけます。

2、山に入るには覚悟をもって

深山にいますと、自分の願望、もしくは心の迷いが森に映るのか、不可解な現象が繁茂に現れてきます。どこからともなく聞こえる叫び声や山が崩れるような大音響。大地から湯気のように沸き起こるエネルギーの様子。人とも獣とも区別のつかない生き物が出てきたり、半霊半体のもののけが人を脅かしたりいたします。人の心が映すのか、自然の力が物質化させるのかわかりません。

古来よりそういった現象の一つといわれるものが天狗です。天狗は特に武術を好みます。しかも勝敗にこだわる者たちなので、その修業者のレベルに応じた力のあるものが登場します。つまりその人より劣るレベルは登場しないのです。天狗は相手を打ち負かすことが面白くてしかたがないものですから、臆病な者、腕力のない者などはもてあそばれてしまいます。勝つか負けるかしかない関係ですので、勝ったら天狗を従わせることができますが、負けたら従うしかありません。

負けて従うとはいわゆる魂を引き抜かれるということです。つまり、肉体をあけわたしますので、狂人のごとく気がふれてしまいます。ですから山に入って鍛錬をするには、よほどの覚悟と志、そして強靭な肉体と卓越した技をもつことが大事です。

山登りに例えますと、そこらへんの町の見える低い丘のようなところならハイキングの気分で歩けますので持ち物は小さなバスケット程度で結構です。しかし、少し山間部に入りますと、やはり道も舗装していませんので険しくなりますし、天気も変わりやすくなります。ですから靴も山歩き専用の靴で、持ち物もリュックサックを用意して中に食糧や雨具、地図などたくさんの道具を用意します。

さらに高い山を目指すようになりますと、山の調査、食料や道具の下準備などに加え、専門的な山岳の知識と体力が要求されます。人生を山にたとえたら、自分はいったいどんな山を目指しているのかと思います。低い山ならだれでも登れ、またいつでも降りることができます。中ぐらいの山なら少し苦痛が伴いますが、努力で登れます。しかし、高い山を目指すなら、それなりの準備する期間と技術、体力、そしてなにより周囲から反対されてもきっと登ってみせるという強い志と、それを持続できる忍耐が必要です。

あんな険しい山を目指して何の得があろうかと言われたら、誰も登ったことのない山だから登りたいと答えるでしょうし、最初に登ったものの特典として、そこに好きな名をつけることができるのも魅力です。

3、天狗に惑わされぬ気持

このように山は一から稽古をする場所ではなく、いわば弱い人心と決別する仕上げの場といっていいと思います。自然に適応する能力と、天気に対する臨機応変な対応、草木や禽獣虫魚の息を感じる感性とともに、霊的な現象に身をまかせつつも自分を見失わない堅固な精神力が試されます。

山は小さな我を捨てて大きな我と一体となる絶好の場です。ここで我を捨て切れずに、小さな欲にしがみついていますと天狗にいいようにもてあそばれます。天狗は人と自然が生み出した現象なのかもしれません。

天狗も無数のランクがあります。金星からの隕石が落ちたといわれる鞍馬山には僧正坊といわれる上級クラスの大天狗がいます。遮那王と名乗っていた時代の義経はこの天狗が現れて圧倒的な強さを伝授しました。同じ隕石が飛来した播磨の高御位山の並びの桶据山では宮本武蔵が天狗と技を練りました。

いずれも先に書きました魔王尊ことサナトクマラの所為で、俗にいう鞍馬天狗です。遮那王の名はサナトからで、鞍馬はクマラの転訛です。また隕石が落ちた紀州の熊野からは鬼の子と言われた武蔵坊弁慶がいます。両者がひき合わされたのも偶然ではないでしょう。

宇宙から飛来した隕石を御神体とし、そこに天狗が現れるという話も、もしかしたらインドでは天狗は流星のことをいうからかもしれません。しかし天狗はやはり天狗です。神にもなれず人にもなれぬ哀れな現象です。そういったもののけの力に惑わされることのないよう、稽古人の皆様には野山での稽古には十分気をつけてほしいと思います。

ご承知のように、かく言う私も、かって天狗の世話になったことがあります。和良久以前の若い日、南禅寺の山、そして先般、ご案内いたしました大悲山で行をとったときです。幸いに彼らに屈せず下山できましたのは大神様と竜王様のお導き、そしてご先祖様のお陰でした。

4、和良久は「大本の艮の金神」で生まれた武道

あの大悲山と崖に立つ寺院なども、恰好の天狗またはもののけの活動エリアです。特にああいった山深い行場には、古来数え切れない多くの行者が志半ばで命を落としています。それがダル(ヒダル神)となって、山を行く人にとりつきます。急な疲労感、飢餓感、手足のしびれもダルの仕業です。森の中、けもの道、大木、古社などの周辺は気をつけることです。異常を感じた場合は、食べ物や身に付けたものの一部を投げますとおさまります。

三本杉でハシタナイことながら、私がやたら米や水をそこらに撒き散らしていましたのも、あの周辺にダルが群がっていたからでした。とにかく皆さんには無事にお帰りいただくよう気を張って警戒をしていました。いずれにしましても、あれだけの大人数が行場である山に入り、何事もなく帰れましたのは奇跡だといっていいでしょう。それも皆様が日ごろ言霊の技の鍛錬を怠らないことと、尊い大神様のご守護のたまものがなせることでした。私はあらためて稽古人さんたちを誇りに思いました。

このように、山は天狗のみならず魑魅魍魎が渦巻くまだ未知な空間があります。入るにはそれなりの覚悟と警戒心をもっていただくことをもう一度お願いしたいと存じます。そして、山に入って苦行することなく、すでに神意に従っての理念と実践が確立された稽古法があるとすれば、それに従って、清らかな環境のもとで楽しく稽古をすることです。あとに従って歩かれる方たちが余計なことで災いを受けないように、和良久は、そのつもりで私が生命をかけてつくりあげました。

それともう一つ。前回、九鬼にまつわるさまざまのことを書きましたが、宇志採羅根真大神は出口直様という人物を通してこそ本来の姿を顕現されたのです。ですからいまの大本は、九鬼伝承のものとはまったく異質なエネルギーを放っていることを知ってください。

 九鬼霊石によるサナトクマラとの関わりもけじめをつけるため、大本開祖は老いた身もかえりみず一行を引き連れ鞍馬を詣でられた・・・私はそのように察しています。

和良久はこの「大本の艮の金神」で生まれた武道です。和良久は天狗ややくざ神などの力は微塵も介入させていません。和良久は、言い置きにも書置きにもない武道です。これを世に出すことは並大抵ではありませんが、誰も登ったことのない山を目指すがごとく、私はそれなりの楽しみをおぼえつつ今日を歩いています。そこに稽古人の皆様が一緒にいてくださることはとても心強く思えるのです。

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