2011.11.28.       

70話 「神は小さなことを喜ぶ」

神の教えは実践するものです。机上で学ぶものではありません。行動となって現れるものこそ本当の教えです。また、いくら教えを学んだとて、「まっすぐな人」となっていなければ意味がありません。まっすぐな人とは「よい人」のことです。よい人とは正しいことを当たり前のこととしてやる人です。

こういう人は、いつも笑顔です。人に暗い気持ちをもたせません。そして率先して人に挨拶をします。また挨拶をするときよそ見をしません。偉そうな態度をとりません。いつも頭が低いのです。

例えば食事をするとき、合掌し天地への御恩を口で唱えながら、だらしのない姿勢で食べ、食べ残しを出したり食器の汚れもそのままにしたりいたしません。掃除や炊事や労働で体が汚れる仕事を「下座の行」などとは言いません。下座の行とは、綺麗なところに住んで楽をし美味しいものを食べて贅沢をすることです。

上座の行とは体が汚れた人のお世話をし、心が恨みや妬みや憎しみや悲しみに満ちた人を癒すことです。いま苦しみの中にある人は上座の行を行っています。祈りと感謝をもってそれを受けることにより次には神の座が用意されています。

神の道にあるものは人の悪口を言いません。悪口は妬みの始まりです。何事にも謙虚で「あほ」になれます。本当の力をもっていると相手を立てることが当たり前になります。それは相手が哀れに思えるからです。偉ぶっておられる方は自信のない方なのです。一生懸命背伸びをしようとしています。哀れなものです。役職を盾にする方も哀れなものです。上にある人ほど人より頭を低くせねばなりません。

私が武道を選んだのは理念と実践が同時に存在する世界だからです。まことの宗教は武道のあり方そのものです。信徒とは言い方を変えれば稽古人です。ですから信仰を行っているものは理念におぼれてはなりません。そして、その理念を武器にして人と口論してはなりません。

とにかく、偉そうな人、挨拶ができない人、笑顔のない人、役職で相手を見る人は稽古人にはいません(いてはなりません)。なぜなら稽古とはこういった思い上がりを消すことだからです。

神様は小さなことをお喜びになられます。


志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ