2012.09.23    

                 第83話 「言霊の書 古事記」

1、千三百年の時を超えて

 古事記が編纂されてより、今年で1300年を迎えます。

 古事記は、和銅5年、天武天皇が、まことの日本の姿を後世に残すべく、語り部、稗田阿礼に命じて口述させ、太安万侶が筆録したもので、1300年の時を超えても今なお異彩を放つ素晴らしい物語です。

 しかし、現代語に訳されたものが出回っているものを見ますと、まったく異なった物語となって再現されているのは悲しいことです。また、古事記は稗田阿礼が当時の口調で語った「やまとことば」すなわち言霊です。黙読するのではなく、声に出して読んでてみますと、1300年前の言霊が蘇ってまいります。

 意味が少々不明でも、その音の響きを感覚でとらえていただけば、きっと当時の雰囲気を感じることができるでしょう。その音の響きから受ける優しさと誠実さは、今の日本人が忘れ去った大切なものを思いこさせます。これこそ、まことの「やまとことば」がもつ言霊です。言霊は心で聞き、体で感じるものです。

2、古事記は言霊の書

 さて、古事記の内容は、あらゆることを至極ストレートに表現されています。複雑にすることなく、単刀直入に伝えるという、心に秘することのない純朴な姿こそ日本人の姿だったといえます。

 古事記は、稗田阿礼が「神がかり」して語ったものですから、人の言葉ではなく神の言葉、すなわち言霊です。ゆえに古事記は言霊の書と言えます。よって、古事記の真の解釈は、言霊をもってせねば不可能です。

 言葉のみを解読していきますと、それは単なる作り話の神話にしか過ぎません。ところが、言霊をもって解いていきますと、いまの科学に匹敵する宇宙創造説となります。

3、「なる」を学ぶ

 さて、言霊とは何でしょう?
 それを解くカギはやはり古事記にあります。

 古事記を読み始めますと、一つのフレーズが繰り返されているのがわかります。そう、お気づきの通り「なる、なる」というフレーズです。

「高天原に『なり』ませる神の名は」
「塩こおろこおろにかき『なし』て」
「あが身はなりなりて『なり』あわざるところひとところあり」

 「なる」に字を当てますと「成」「生」「鳴」の三つに大別できます。

 言霊は、この「なる」とはなんぞや・・・ということを学ぶものなのです。
功成る、実が生る、音が鳴るなど、「なる」という意味は「完成」「誕生」「音響」を指します。

 さて、言霊は、またの名を「アマツミヤコト(天津宮言)」と言います。アマツとは、「アマ〜天〜宇宙」の「津〜拠り所〜空間」で天の世界、宇宙空間ということです。

 また、ツは「とめどもなく湧き出ずる」という意味もあり、天から無限に降り注ぐという意味でもあります。「ミヤ」は「高き尊き麗しきにまします御方」という意味で、つまり「神」ということ。 また「コト」は「言、事、理、琴」という意味です。

 つまり、天津宮言は「カナギ〜神の形」「スガソ〜神の力」「ノリト〜神の音」の三つのことを指します。

 三種の神器と言われるものも、この三つから生まれたものです。

4、神の名は創造の過程

 この世界は「スウアオエイ」の音声の順で「なった」といわれます。それは、古事記に記されています神々の名がそれを表しています。

以上、五柱の神を「天津神」という。

宇比地迩神 妹須比智迩(去)神  「ア」〜幸魂
淤母陀流神 妹阿夜訶志古泥神  「オ」〜和魂

意富斗能地神 妹大斗乃辨神   「エ」〜荒魂
次角杙神 妹活杙神       「イ」〜奇魂

5、天沼矛(アメノヌホコ)

 以上、霊力体を司る神々がそろわれると、いよいよ国生みの神事、すなわち創造の技が執り行われます。この国生みの神事に用いられた道具こそ、天沼矛(アメノヌホコ)と言われるもので、実は、これこそ武道の原点なのです。

 武道の、武の字にある「矛〜ほこ」を止めるとは、神の創造の力である天沼矛を、この世界に留め置くという意味です。天沼矛に字を当てはめるなら「宇宙神霊凝縮力」ということになります。

 このように、武道とは破壊から生まれたものではなく、創造の技から始まったものであるという証明が、この古事記にしっかり記されているのです。

 さて、天津神がこの世界を創造されるに際し、伊邪那岐神と伊邪那美神に天沼矛をお与えになり、二神は天浮橋に立たれます。天浮橋とは、理想と現実の世界の狭間にかかる橋で、進めば進むほどに伸びて、永遠に渡りきることのできない橋です。

 その天浮橋から、二神は天沼矛を指しおろし、「シオコオロコオロ」にかきならされます。「シオコオロコオロ」とは、水火(いき)を絡み合わせて動く様子、つまり「螺旋運動をもって」という意味です。

 天沼矛によって「かき鳴らして」とあるように、水と火が螺旋してかき合わされ、大音響を発します。このときの音響が父なる音「アオウエイ」なのです。

 アオウエイの音が重なるにより「アオム」「オーム」「アウン」などとも聞こえるがゆえに、国により、宗教により表現が変わります。しかし、正しい元の音は「アオウエイ」の五つの音です。

6、「今なるぞ」の書

 昨日、神戸道場の稽古にまいりました。控えの間に入らせていただきますと、床の間に四代様の色紙で「今 なるぞ」が掛っていました。いかにも四代様らしい書体であり、直観的な内容です。

 「今なるぞ」というのは、何気ない一言です。もし私が稽古をし、言霊を学んでいなかったら、この意味は単に「時は今だ」ということぐらいにしか思いつきません。しかし、いまこの色紙を目前にしますと、まったく違った観点から見ることができます。

 和良久は、四代様のご命名で、言霊を実地に学ぶために生まれたものです。言霊とは、すなわち天津宮言のことで、三つの「なる〜成、生、鳴」で構成されていますことはすでに申し上げた通りです。

※ 成る〜天津金木、生る〜天津菅曾、鳴る〜天津祝詞

 そうしますと、この書の意味は・・・・

今 成るぞ
今 生るぞ
今 鳴るぞ

・・・と、いうことになります。

 ご神名で申しますと、「宇麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこじのかみ)」になります。

 この神名の「うまし」とは、形容しがたい喜びの極致。
 「あしかび」とは、成、生、鳴の発動。
 「ひこじ」とは、円融無碍の状態です。

 ああ・・・そういえば、いま「嬉しくなり」とか「いっぱいになりました」などと書きましたが、私たちも、文章を書くときや話す時など、この「なる」という表現をよく用います。

 古事記には冒頭から「高天原になりませる神の名は」などをはじめ、多くの「なる」が連発されていますが、この「なる」というフレーズを抜きにして言葉もなく、行動もなく、思考もないのかもしれません。

 私たちは自然に、古事記同様、この「なる」を実践させられているのではないかと思います。

 「生きる」とは、「水火螺(いきる)」と、つまり水と火が廻って絡み合うことです。生きていることは、音を発することです。死ねば「こと(音)きれる」というように、音が消えます。つまり「なる」ことが、この世界の法則です。

 伊邪那美神が「なりなりて なりあわざるところ ひとところあり」と言い。伊邪那岐神が「なりなりて なりあまれるところ ひとところあり」と言われたことは、生きとし生けるものの、命のあり方を端的に表現した言霊だと存じます。

 


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