2012.10.18     

                 第84話 「真ん中の力」
  1. 鎮魂とは真ん中に帰ること

     私は前でもない、後ろでもない
     私は前と後ろの真ん中にいる

     私は上でもない、下でもない
     私は上と下の真ん中にいる

     私は右でもない、左でもない
     私は右と左の真ん中にいる

     ・・・以上は、私がことあるごとに、特に大事なことを前にするとき、中心感覚を思い出すため自分に言い聞かしている言葉です。

     中心感覚は、言霊の法則の基本ともなるべきもので、本来の自分を取り戻す大切な感覚です。

     真ん中にいますと、自分を含め、まわりがよく見えます。絶対中立の立場に立つことにより、冷静な判断力が発揮されます。

     人に媚びず、自分を見下げずという、淡々とした気持ちに満たされます。
     他人や自己に対し、偉いとも思わず、また偉くないとも思いません。
     また、誰が偉いとか偉くないとかいうことさえ消えてしまいます。

     中心とは、心の中。つまり、潜在意識層を指します。
     本当の自分は何なのかを知ることができる領域です。

     中心に自分を没入させ、本来の自己に帰ることこそ鎮魂帰神です。


  2. 鎮魂は人生の営みの中においてこそ活きるもの

     神(言霊)は、遠い空におられるのではなく、自分の心の中にいらっしゃいます。
     この「神のおわします場」こそが中心です。

     神とともにありたければ、中心にいることです。しかし、この中心が、なかなか手ごわい。一旦、気持ちが中心に落ち着いたとて、永遠にその感覚を確保できるものではありません。

     たとえば、丸いお盆の上においたビー玉のようなものです。お盆が肉体、ビー玉が心と考えてください。お盆の上のビー玉は、慎重にお盆を水平に保たないと、右へ前へ左へと、コロコロと転がって止まりません。下手をすると、お盆から落下してしまいます。

     このビー玉を、お盆の真ん中、つまり中心にもっていき、真ん中から動かないようにお盆を水平に保つことが、私たち人間の務めと言っていいでしょう。

     鎮魂とは、座って静かに瞑想にふけることでありません。静かな山奥に入り、世間の喧騒から離れれば、誰でも心は落ち着きます。しかし、山をおり、また社会生活に復帰した時、その落ち着きは保持できるでしょうか。

     そんな、一時しのぎのようなことをやっていたとて、本当の安らぎはいつまでも訪れるものではありません。人が社会生活を営む以上、慌ただしい中においてこそ、鎮魂を達成しなければ意味はありません。


  3. 自らの力で中心に帰ること

     誰でも、どんな偉人賢人、また聖人でも、心は常ならず乱されるときがあります。
     悟りの境地に達したとて、その境地に留まることの困難さは、彼らが一番よく知っているのです。

     しかし、彼らが凡人と違うのは、心乱されたときにでも、速やかに心を立て直す術を知っているということです。心を立て直すとは、「中心に戻る」ということです。

     さっきのお盆にビー玉の説明でいけば、すっと、ビー玉をお盆の真ん中にもっていくことができる技術に長けているのです。

     中心に帰るというのは技術です。ですから、これは毎日訓練を続けないと身に付きません。訓練を怠ると、心は迷走をはじめます。すなわち、かたよったものの見方、執着心というものに支配されてしまいます。

     執着心は嫉妬、憎悪、怨恨、我執などの悪魔を呼び寄せます。悪魔祓いとは、人の心の中に根付く執着心を根こそぎ引き抜くことです。

     中心感覚を取り戻し、維持し続けることにより鎮魂は達成されます。鎮魂の持続は、神とともにある状態です。世界中の人々が鎮魂の技術を学び、中心感覚を取り戻しますと、そこに「一致和合の世界」が招来します。

     本当の平和とは、人それぞれ、自ら心の真ん中に至らねば、決して訪れるものではありません。自分の心は、人があやつるのではなく、自分自らの力でコントロールせなばなりません。他者への依存は神を否定することです。

     時々刻々変化する己が心をしっかり監視し続け、常に真ん中にとどめ置くよう注意を払うことが大切です。

     この中心を取り戻す技術が、和良久の稽古といっていいと思います。


  4. 八力と四魂

     八力とは、四魂が力となって顕現したものです。ですから、本当は八つは四つに統合されるのです。これは神前礼拝の拍手と同じです。四拍手は、「八平手」といわれます。
     手を八つに広げた形が合わさった形が四拍手です。

     拍手とは、対称する二つの存在「火」「水」が一致した形で、言霊の法則を端的に表現しています。

     八力で説明します。

     アは、凝でもなく、解でもない
     アは、凝と解を同時存在させた真ん中の力

     オは、分でもなく、合でもない
     オは、分と合を同時存在させた真ん中の力

     エは、動でもなく、静でもない
     エは、動と静を同時存在させた真ん中の力

     イは、引でもなく、弛でもない
     イは、引と弛を同時存在させた真ん中の力

     言霊の力とはツルギ、すなわち「釣り合わせる義」です。これを「対称の同時存在」といいます(古語で「タタノチカラ」という)。そして、完全に釣り合わさった状態を「まつりあわせ〜祭合わせ」といいます。

     霊と体のバランスが整った状態が健康であり、バランスを失ったら病です。

     心と体の軸が、前後、上下、左右のどちらか一方に偏ったアンバランスな状態を「執着」または「とらわれ」といいます。

     「凝解」「分合」「動静」「引弛」の八力は、それぞれ対称になっています。これは、決して力の使い方ばかりではなく、現象界の出来事そのものをあらわすものなのです。

     凝り固まるの対称が、解きほぐす。
     分かつの対称が、合わさる。

     動くの対称が、静まる。
     引くの対称が、縮まる。

     光あれば影あり、善があれば悪あり、表があれば裏があり、吸う息があれば吐く息あり。 霊あれば体あり。神あればサタンあり。生あれば死あり。

     すべからく、この世は対称する二つのものが、同時に存在しています。

     運命もそうでしょう。良いことがあれば悪いこともあります。笑う人がいれば泣く人がいます。健康なときがあれば病気の時もあります。雨も降れば晴れの日もあります。

     すべては、とどまることなく流転しています。コホロコホロと、螺旋の渦の中に私たちは喜怒哀楽を繰り返しながら生きています。

     大きな大きな宇宙の営みの中にある、ほんの瞬間にきらめく星の輝きが人生ではないでしょうか。

     たとえ瞬間であっても、それを大切にすれば永遠に続く喜びとなります。

     瞬間は「・」、永遠は「○」。これも二つのものが同時に存在している姿です。


  5. 古事記が教えるもの

     「アメツチハジメノトキニ タカアマハラニ ナリマセル カミノ ミナハ アメノミナカヌシノカミ」

     古事記にあります初発の言葉です。

     古事記に書いてありますことは、遠い神代の昔のことではなく、いま現在に生きる人々の心のありかたを示しています。

     「アメツチハジメノトキニ」とは、もちろん宇宙創成のときのことでもありますが、これは人が何か志をもったとき、心に目標を見出した時と考えてください。

     「タカアマハラニ」とは、絶対バランスをもった心と体の状態であり、前後上下左右に均衡かつ満遍のない力がいきわたっている、理想的な社会構造をあらわしています。
     ここには、圧力的支配も、理不尽な権力も存在しません。

     「ナリマセル」とは、天津宮言すなわち言霊の法則をしめします。
     言霊とは以下の三つの「なる」を実践する学びです。前に書きましたが、もう一度整理します。


    ●カナギ〜宇宙の形態 「成る」
    ●スガソ〜宇宙の摂理 「生る」
    ●ノリト〜宇宙の音声 「鳴る」

     「カミノ ミナハ」とは、火と水のまことの意味ということで、宇宙エネルギーの本来の用い方とはという意味です。

     そして「アメノミナカヌシノカミ」とは、「アメツチハジメノトキニ タカアマハラニ ナリマセル カミノ ミナハ」の意味を総括したものです。

     つまり、人が志を立てたとき、まず心と体を真ん中に置きなさい、そうすれば宇宙の力が集まってあなたに見方してくれますよ、と言っているのです。

     私たちは常に中心感覚を意識し、心を真ん中にとどめ置くことによって、心身を平成に保つことができます。これがまことの健康だと存じます。

     前でもなく後ろでもなく、上でもなく下でもなく、右でもなく左でもなく。

     これは、結局は「普通であれ」ということなのだと思います。普通とは、平常心の持続です。

 


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