2012.11.05     

                 第85話 「特別な力が消えた要因」

 よく「善良な市民」といいます。

 この善良な市民といわれる人たちは、往々にして、いつも社会や人に対して不平不満をもっています。

 ただ、自分に権力がないから、おとなしくしています。自分に財力がないから、つつましくしています。

 しかし、この善良な市民といわれる人たちに、試しに、権力や財力などを与えたらどうなるのでしょう。

 残念ながら、この善良な市民たちは、権力を得たなら突然人を見下し、財力を得たなら急に贅沢三昧をします。

 私たちは、きっと、少し不足気味なのが、人をおとなしくさせる要素になっているのでしょう。「多くなく、少なくなく」の状態が、人を善良な状態にキープしてくれるようです。

 さて、私は、毎日、車で出かけます。それで、後ろから追い立ててきたり、無理な追い越しをかけられたりなど、走っていますと、本当にマナーの悪いドライバーによる嫌がらせに遭遇いたします。

 サービスエリアで休憩をしていますと、善男善女といわれるほど、おとなしそうな人たちにあふれています。よく見ると、さっきまで、まことにマナーの悪い運転と思われる車からおりてきた人たちが、その中に混じって、やはりおとなしそうに食事をしています。

 人が車に乗った時、人は自分自身にはない驚異の能力を手にします。

 人が、時速100キロ以上など、あんなに早く走れません。また、人は、車ほど衝撃に耐える強さはもっていません。

 普通の人が、車という特殊な能力を得た瞬間、何か自分が偉くなったような気がするのでしょうか。

 マナーを守っている車を見下し、邪魔者扱いして、クラクションを鳴らしたり、追い立てたりして、威嚇します。話は戻りますが、そういうことをする人間てどんな人間なのだろうと、サービスエリアで見ると、本当に人のよさそうな人たちなのです。

 子供連れのよきパパであったり、友達思いの若者であったりです。どう見ても「善良な市民」です。さっきの無謀で身勝手な運転など思いもよりません。しかし、また一旦ハンドルを握ると、車のもつ魔力に負けます。

 車という権力を与えたゆえに起こる勘違いでしょう。車に乗らなければ、本当に善人でいられるのにと思います。

 何をなすにも鎮魂が第一ですが、車に乗った時など、特に鎮魂が必要です。大きな力を得た時に、求められるのが鎮魂です。鎮魂は、神の導きを得、自制心を保ちます。

 車に乗りますと、それだけで多くの罪をつくります。毒ガスをまきちらし、自然を破壊してつくられた道路の上を走り、数えきれない虫を踏み潰し、またはフロントにぶつけて殺しています。それだけでも、毎日、天に地に詫びる必要が十分にあります。

 今の世、まったくの罪を犯さずに生きていくことは不可能に近いようです。どのような宗教者でも、どんな善良な市民でも、この地上に生きているうえは同罪です。

 ただ、日々、謙虚に、つつましく、感謝に満ちて生き、ことあるごとに詫びる気持ちがあるかないか・・・これだけだと思えるのです。

 人が人に偉そうに教え諭すことなど、だれにもできないと思います。ともに生き、ともに詫び、ともに切り開いていく・・・これだけのような気がします。

 この年になりますと、何度か、人が有り余る権力を得て、変貌した様子を見ることを得ます。昨日まで、ともに親しく語らいあっていた友が、いきなり権力を得、人を見下すという寂しさに遭遇します。なんで、こんなに変わるのものかと思えます。

 昨日まで、お金がないと笑っていた友が、思わぬ財力を得ます。すると、さっきまで大事にしてくれていた、私の贈った安物のカバンを躊躇なく捨てて、いまはブランド品を手にしています。

 これが組織、あるいは国家レベルになると、ことは大事に至ります。虫でもつぶすように人を殺めたり、花を摘むように人のものを奪ったりします。それによって、自分の御殿をより豪華にしていきます。

 もしかすると、私たちが大きな罪を犯さないでいられるのは、私たちに人を動かす権力や、ほしいものをすぐ手に入れる財力がないせいかもしれません。

 もし、わたしたち凡人に、そういった力をもたせたなら、何をしでかすかわかりません。

 善人でいられるのは、不足があるおかげかもしれません。

 これと同じで、私たちにもし人の心を読んだり、姿を消したり、物を触れずに動かしたりなど不思議な力があったならどうでしょう。

 心の状態が良い時は、平和のために・・・などと思うでしょうが、ちょっと気に食わないことがあると、その能力を悪用するに違いありません。もしかしたら、人の命を奪い去る行為に走るかもしれません。

 太古、私たちは超えた力をもっていたといわれます。

 それがなくなった大きな原因は、私たちの、権力に対する計り知れない欲望が起こったせいだと思えるのです。神は「こういう愚かな者たちに私の力を渡してはならない」と慮ったゆえだと思います。

 もし、私たちに、あらゆる面で異常な執着心が消え、自分のように人を思い、自分の庭のように地球を思うことができれば、そのときはきっと、太古の力が復活するのだと思います。

 


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