2013.04.01

                 第95話 「学校における武道奨励について」

 中学校における武道奨励について、文部科学省は以下のように通達しています。

<中学校武道・ダンスの必修化>

「文部科学省では、平成20年3月28日に中学校学習指導要領の改訂を告示し、新学習指導要領では中学校保健体育において、武道・ダンスを含めたすべての領域を必修とすることとしました。

 武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化であり、相手の動きに応じて、基本動作や基本となる技を身に付け、相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です。

 また、武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です。

 ダンスは、「創作ダンス」、「フォークダンス」、「現代的なリズムのダンス」で構成され、イメージをとらえた表現や踊りを通した交流を通して仲間とのコミュニケーションを豊かにすることを重視する運動で、仲間とともに感じを込めて踊ったり、イメージをとらえて自己を表現したりすることに楽しさや喜びを味わうことのできる運動です。(文部科学省HPより)」

 武道を学校教育に取り入れることは非常に良いことと思います。

 もし、まことの武道が学校に導入されたら、子供たちは礼儀と節度を改め、腰と腹のもつ計り知れない力を知り、本来の日本人のあるべき姿を確実に取り戻すことができます。

 しかし、文部省の文面を拝見しますに、武道とは「相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動」という、どこにも武道本来の意味を伝える内容が含まれていません。

 また、同時にダンスも導入するようです。ダンスは楽しい文化活動だと思います。
きっと文部省も、若者のエネルギーを発散させるにの適していると考えたのでしょう。

 ダンスは早く、そしてアクロバティックな動きが要求されるので、腰を抜いて動くのが特徴です。武道は、丹田養成のため、腰を入れて重々しく静かに動きます。

 つまり、武道とダンスとは体の使い方がまったく正反対なのです。

 それはいいのですが、片方で腰を入れ、片方で腰を抜くことをさせるのは私にはどうにも意味がわかりません。なにより、武道を「勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わう運動」という、まったく武道というもののルーツを知らぬ方たちの見解は呆れてものが言えません。

 ダンスもそのような意味で行われるのでしょうか。誰が上手、誰が下手。また誰が格好いい、格好悪いというランク付けができるのは目に見えています。

 文部省にしてみれば、武道もダンスも同じ運動にしか過ぎないのです。採用される武道も、柔道と剣道ということですが、現在の柔道も剣道も武道ではなく「競技スポーツ」です。

 ことに誰が強い、誰が弱いにこだわり続けてきた柔道は、武道ではなく格闘技といっていいでしょう。その証拠に、オリンピックで金メダルをとった柔道家はプロレスなどに数知れず転向しています。また、死亡事故や障害事件も多いのも柔道です。

 柔道はオリンピック種目に採用されるべく大衆路線を歩みだした時から「道」が消えました。稽古はいにしえを思うことであり、いにしえとは神を尊び、先人を敬することにほかなりません。

 柔道に限らず、現代武道は「稽古」をせず試合にかつための「トレーニング」を行っています。武道は元来一つのものであるはずです。それが剣道、柔道、空手などに細分化されるという妙な現象を生み出したのも、やはり、一般大衆化を目論んだゆえのことでしょう。

 宗教に万教同根という考え方があります。世界に多くの宗派宗教がありますが、もとは一つの神から生じたものであるということです。

 武道も同様に、万流同根です。最初に「矛」がありました。その矛の力が、さまざまの動きを生み出したということと同じです。

 武道とは何ぞやといえば、武道とは「矛をとどめるの道」といえます。しかし、これでは答えになっていません。まず、矛の意味を知らなければならないのです。

 矛とは古事記に登場する、万物を創生する神の道具「天のぬ矛」のことです。矛は「火凝」で、「創造主の霊力が凝縮したもの」という意味です。その動きとは「シホコホロコホロ」つまり、シホとは水火(陰陽、+と−)、コホロコホロとは螺旋運動という意味です。

 このように矛とは破壊殺傷の道具ではなく、宇宙創成の神器なのです。ですから、矛はその使用を制止させるものではなく、大いに活用すべきものなのです。

 活用するには、その矛の力を人々の五体の中心に深く留(とど)め置くことです。この矛の力をとどめることを「武」というのです。道とは「神からの道、神への道」とい言うことです。つまり武道とは「鎮魂帰神の神術」を指します。

 まことの武道を稽古すると、鎮魂(武)し、帰神(道)するのです。正しい神との接触は、正しい礼儀と節度をもたらし(一霊四魂)、正しい力の使い方(八力)を行わせます。つまり宇宙の法則を学ぶことになるのです。

 この力(八力)の運用は、剱を持てば剱術に、腕をつかめば柔術に、手足を飛ばせば空手術に変化します。武道は武道であって、剣道でも柔道でも空手でもありません。

 私は今の日本に一番必要なのは、武道を中心に置いた学校教育だと思っています。しかし、それが競い合うといったものでなく、互いを尊重する技の掛け合いでなければ意味がありません。

 終戦のとき、占領軍がまっさきにおこなったのが武道の廃止でした。米軍は、武道に日本そのものを失わせない根源的エネルギーが存在することを調べつくしていたのです。武道は日本民族の誇りそのものなのです。

 日本の誇りを奪い、土壇場で火事場の馬鹿力を発揮する要素をもつ「腰と腹の力」を失わせるには、武道を廃止することが最も適切な策でした。それほど彼らは武道精神を恐れていたという証拠です。

 腹のすわった人たちが育って政治をすればこの国は変わるでしょう。腰の落ちた人が会社を経営すれば社会も安定するでしょう。礼儀節度を心得た人たちが世界に飛び散れば、世界は日本を見直すでしょう。

 まだまだ言い足りませんが、最後に出口王仁三郎聖師が発布せられた「大日本武道宣揚会趣意書」を紹介してこの章を終わりたいと思います。

 私は、27年前、この大日本武道宣揚会に憧れ、まだいまの時代にあるものと信じて大本を訪ねました。残念ながら、この会はとうの昔になくなっていましたが、私はいつかこの武道宣揚会を再建させたいと夢見てきました。

 ですから、私にとって和良久は、この大日本武道宣揚会そのものなのです。和良久の理念も技もすべてこの趣意書に基づいてまとめました。

 さあ、皆様とともに、もう一度読み返してみたいと思います。

 「真の武は神より来るものである。武は戈を止めしむる意であつて、破壊殺傷の術は真の武ではない。否斯かる破壊の術を滅ぼして、地上に神の御心を実現する破邪顕正の道こそ真の武である。

 神国日本の武道は惟神の道こそ真の武道大道より発して皇道を世界に実行する為に、大和魂を体に描き出したものである。徳川三百年、武士道華かなりし時代は、既に真の武士道は失はれてゐたのであつて、むしろ真の武士道は言挙げせぬ神代に存在して居たのである。

 今や天運循還、百度維新、東西古今の文物は翕然として神洲帝国に糾合され、世界人は斉しく神機の大なる発動を待望して居る。而して此の混沌たる世界を救ふの道は唯日本固有の大精神たる皇道を天下に実行するの外無いのである。

 吾が大日本武道は神の経綸、皇道の実現のために惟神の人体に表はされたるものであつて、蔵すれば武無きが如く、発すればよく万に当る兵法の極意を尽すものである。

 昭和維新の大業は政治経済のみでもゆかず学術のみでもゆかず、又精神のみでも充分ではない。吾々は神より下されたる真正の大日本武道を天下に宣揚して此の大業成就の万分の一の働きを相共にさして頂きたいのである。神より発したものは神に帰る。

 真の武は神国を守り、世界を安らけく、人類に平和を齎らすものである。願はくは此の意を諒せられんことを。」


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