2014.05.1906   

              第122話 「過不足ない存在」

 私たちは稽古を通して「調子、拍子、間」というものを習得していきます。

 「調子、拍子、間」がわかりにくければ、リズム、タイミング、距離と言い換えればわかりやすいかもしれません。

 技を繰り出すタイミングや相手との距離は適切か。そのときの技がぎくしゃくしていなく、旋律ある動きであるか。

 「調子、拍子、間」は相手がいる稽古に限らず、一人稽古でも同じです。

 自分の体と心が相対し、起こる葛藤を鎮めていくことから、まことの技が始まります。


 体の動きが心の思いと同調しているか否か。

 「思うようにいかない」ということをよく口にしますが、それは理想と現実が一致しないというジレンマに似ています。

 わたしたちは、高い理想、すなわち理念や志に応じた動きや態度が現れることを求めてやみません。

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 何に対する調子、拍子、間なのか。

 大きくは宇宙と自分との「調子、拍子、間」であり、小さくは自分の体と心の「調子、拍子、間」でもあります。

 また、潜在意識と顕在意識との「調子、拍子、間」。

 腕と脚との「調子、拍子、間」。呼吸と動きとの「調子、拍子、間」。

 つまり、自分の外にしろ、自分の中にしろ、相対する二つの存在が向かい合った時、この二つのものが調和するために、そこに「調子、拍子、間」というものが介在します。

 会社であれば、上司と部下。家庭であれば夫と妻。また親と子供。

 学校であれば教師と生徒。先輩と後輩。

 こういった人間関係において、互いの人間関係が円滑にいくために欠かせないのが「調子、拍子、間」をとりあう「技」なのだと思います。

 話し合いであれば、自分は出すぎていないか、あるいは逆に引きすぎていないか。

 集まりに応じた空気を読み、その場に即したもっとも適切な態度で臨むことが、人間にとって大切なことだと思います。調和を乱すことなく、和やかに保つために、いま自分は何を言うべきか、すべきか、思うべきか・・・です。

 まじめに和良久の稽古に取り組んでいる人たちには、こういった空気を読む、すなわち「水火を読む」ことに長けていますので、さまざまな集まりにおいて適切な対応をとることができます。

 それはまるで、その部屋(集まり)が暑くもなく、寒くもないように調整するエアコンのようにです。

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 八力の追及とは、「上でもなく下でもなく」「右でもなく左でもなく」「前でもなく後ろでもない」ポジションの確保に尽きます。これは、もちろん心においても、体においてもです。

 強すぎず弱すぎず、明るすぎず暗すぎず、楽しすぎず苦しすぎずといった、過不足のない「ゼロ」の位置にいつでもリセットすることが稽古であり、そのように心がけることが稽古人の姿と存じます。

 水火の世界を求めるものたちは、人は「語らずとも心は見えること」を得ます。

 語り過ぎることは「かたより過ぎる」と同じです。

 弁が立つ人を羨むことはありません。

 本当のことは言葉にできません。むしろ言葉にすることによって嘘になってしまいます。


 真実を見つめ続ける人は、心を大切にします。

 心を大切にする人は、音という形になった物質である言葉にはさほど興味を示しません。見えるものではなく、隠れたものに気を注ぎます。人の心にある「思い」に焦点をあてて接するのです。

 仏典や聖書においても「多く語り過ぎるものは愚かな者」ときっぱりと説いてます。

 これは決して無口になれと言っているのではありません。

 場の空気を読んで、いま何が足りないか、また、いま何が過ぎてるかを読むことが重要です。

 余計なことを言ってはならいといって、ドライな状態になることではないのです。

 ときには場を和める冗談も必要です。しかし、冗談も過ぎればしまりがなくなります。

 また時には場を引き締める一喝も必要です。しかし、一喝も過ぎれば皆が氷のようになります。

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 基本は「常の笑顔」ではないかと思います。

 空気が固まっていたらほぐし、空気が緩み過ぎていたら固めるということです。

 笑顔は人にとっての自然なポーカーフェイスだと思います。

 しかし、自分が笑顔であっても人が笑顔でなければ、そこに本当の調和などありません。悪人はよく笑います。しかし、悪人は自分の益のための笑いです。

 皆が本当の笑顔になるよう、各自がどこかで、忍耐や謙譲心をもって、心や態度を調整しなければなりません。

 皆が互いにこういった「場を読む水火の技」を心得ていたならば、きっと争いがおきないと思います。私たちはルールがあるゆえに調和がもたらされています。

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 三元というものがあります。

 剛、柔、流という三つの要素です。

 文字通り、固い、柔らかい、流れるように・・・といったことです。

 この三つはいつも循環しています。

 楷書、行書、草書などのように、字を徐々に自然に崩していくのと似ています。

 技を学ぶ際にも、習い始めは固くなるのですが、慣れてきますと柔らかく動け、そして最後はごく自然に流れるように動いていく境地に達します。
 
 体のつくりも、骨という固いものに肉という柔らかいものが覆い、そこに血が流れて、私たちは生きています。これも剛、柔、流のはたらきです。

 とにかく、どれかにも偏ってはなりません。循環することが大切です。

 技においても、固過ぎず、柔らか過ぎず、流れ過ぎずというのがベストです。

 剱を打つ瞬間は、鉄砲の仕組みに似ています。

 まず、体内において圧縮した呼吸の爆発が生じます。

 その強い爆発力に耐えるため筋肉を極力固めねばなりません。

 しかし、剱を手に残しつつ勢いよく発射させるためには、剱をもった手をはじめ、全身の筋肉を緩めねばなりません。緩めることにより、流れが生じて剱は弾のように飛んでいきます。

 そうして、剱が相手に届いた、その瞬間には、着弾した衝撃に耐えるごとく、体を一気に固めることが求められます。

 次に固めた体を緩め、また剱は元の位置に流れて復します。

 剱を打つにも、こうした剛、柔、流の三元が繰り返されています。

 やはり過不足のない「ゼロ」へのリセットを体得することが基本になります。

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 「調子、拍子、間」の追及は、一言でいえば鎮魂帰神への道です。

 自己の肉体と精神、周囲との人間関係、そして神と人。

 それらすべてと調和することを求める人を稽古人と呼べるのではないかと思うのです。


 なぜ稽古するのか、それは魂を鎮め、神に帰るためにほかならないのです。


 その方法〜稽古は実に簡単です。

 何度も言います。

 「水火を読む」ことです。

 言葉をかえれば、「空気を読む」「場を心得る」「気を配る」「調和する」「和む」「許しあう」「理解する」「愛し合う」ということになります。

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 一見複雑に見える和良久の技も、じつは「螺旋運動を円滑に行う」というシンプルな法則がはたらいているだけです。

 水火の形を具体化すれば螺旋です。

 螺旋は火である「・」を中心に置き、水である「○」が周囲を囲い、中心から円に、円から中心に、コロコロと永遠に回り続けています。

 それは無限大に拡大され、無限小に縮小されます。

 この火と水が織りなす螺旋が円滑にはたらいている世界を高天原と言い俗に「弥勒の世」と言います。

 自分が時に火となったり、また時に水となったりしながら、この現象界と関わっているのです。

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 稽古場における技の意義を、人生という道場に生かすことが稽古人最大のつとめではないかと存じます。

 過不足なき言葉。過不足なき態度、過不足なき気持・・・これを知るために私たちはこの世に生を受けたのだと思います。

 「上でもなく下でもなく」「右でもなく左でもなく」「前でもなく後ろでもない」 これを確かめつつ、「言い」「動き」「思う」ことができているだろうかと。

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 「わたしがつくったこの世界の真ん中とはどのようなところか、あなたたちに与えた心と体をもって探求しなさい。そうすれば、必ずすべてのことはスに帰することを知るでしょう」

 天御中主之神さまの御名が、語られるところです。

 スとは、確かに存在するが、その存在が見えないほど澄み切った透明の場所です。

 いわゆるゼロポイントゆえ、色即是空といわれます。

 この世界に交わることを目指し、私たちの魂は今日も旅を続けています。





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