2014.06.09   

              第123話 「万教同根 (1)」

  1.  ことばと水火の鍛練

     奥山先生は、ことばの鍛練と水火の鍛練を同時にしなければ人の向上はありえないと言われていました。

     当時、先生は天津金木、天津菅曾、天津祝詞という整理はされていませんでしたが、「いまの稽古が落ち着いたら、天津金木に取り掛かってみたい」とおっしゃっていました。

     いまの和良久の稽古は、先生が目指したものとなっているかどうかは分かりませんが、先生の言われた天津金木へ踏み込んだものとなっているのは、偶然とはいえここまで整理できたことにわれながら喜んでいる次第です。

     先生の言う「ことばの鍛練」の「ことば」とは神の息、呼吸が形になったもの、すなわち天津金木であり、「水火の鍛練」の「水火」とは神の息の陰陽の結び、すなわち天津菅曾だということは、今になって理解することができます。

     そして、この両方がそろってこそ、天津祝詞の「ふとのりとごと」となって神様に届くのだと思います。

     和良久の稽古においては、以上の内容を含んだ天津宮言の表を用い、具体的に鍛練を行っています。

     しかし、まだ一般世間の皆様、また稽古に慣れぬ稽古人さんたちを含めまして、天津宮言の表そのものに馴染めぬ方も多いのが現状です。

     天津宮言の表は、言霊の精髄です。この表一枚に記されてあることは、宇宙創造、天地剖判、修理固成、生成化育のプロセスです。

     天津宮言は、仏教でいえば曼荼羅であり、ユダヤでいえばカバラの生命の樹、または化学でいえば元素記号表に相当するでしょう。

     これらの共通点は、万巻の書を一遍の表に納め、そこに法則性を見出すことができることです。

     それこそ解釈については無限に拡大もされましょう。

     しかし、真理は一つなのです。

     たとえば、神という存在にしても、世界中で呼び名が異なります。宗教が異なっても呼び方が変わります。

     しかし、根源なるものは一つのはずです。 言霊学でいうところの「虚空に一点のホチあり」です。

  2. 神の名について

     「おほもとすめおほみかみ」という御名も、大本という一宗教の神様ではなく、宇宙の大いなる本となる主の神という意味です。

     決して大本皇大御神という名が、古来よりあるわけではありません。本名としては、天之御中主之神、大国常立之神となります。

     また、国が変わればゴッド、エホバ、ブラフマー、ゼウス、ユピテル、至聖先天老祖、大日如来となります。たとえば有名人が、本名以外に多くの名前をもっているようなものでしょう。

     余談ですが、私の住む亀岡に鍬山神社という神社があります。

     祭神は大国主命ですが、「最高人格大神」と唱えるように社殿の札に記されています。

     わたしたちが「おおもとすめおほみかみ」と唱えるときは、たんに大本教の神様と言う意識ではなく、そういった大きい存在に対し、最高の尊称をもって申し上げているのだと思うことが大切だと思います。

     万教同根ということが本当に理解できれば、時所位に応じて呼び名や作法が変われど、意識は常に「宇宙創造の主」に向けることができます。

     日本においてさえ、地方により方言によるなまりや、しきたりがあるように、世界においてはなおさらです。それをどこへいっても、「その言い方は間違っている」とて、訂正を求めるのは妙なものです。

     発音や作法が異なるのは、その土地土地にある振動数が異なるゆえんです。ピアノの旋律にはピアノの旋律に合わせて、フルートの旋律にはフルートの旋律に合わせて歌い方が変わるのと同じです。

     大切なことは、すべては同じ一つの存在から生まれた者同士であるということを自覚することでしょう。

  3. 言霊の法則は共通の意識に導く

     天津宮言に書かれていること、すなわち言霊の法則を学ぶことは、そういった共通の意識(万教同根)を学ぶことでもあると思うのです。
     
     こだわることは大切ですが、こだわり過ぎると、本当の「こだわり」ではなくなります。

     以前、鎮魂はゼロポイントへのリセットだと申し上げました。
     
     上でもなく下でもない、前でもなく後ろでもない、右でもなく左でもない、この相反する双方のどちらでもなく、またどちらでもあるという「ゼロポイント」こそ鎮魂であり、帰神の状態に入る入口なのです。

     天津宮言経として唱えることは、先に申し上げた「ことば」の平易なる鍛練法でもあり、その意味たるや大本祝詞「感謝祈願詞」、経文「般若心経」と意味を同じくします。

     ただ、天津宮言の場合は経文「・・・色不異空、空不異色、色即是空、空即是色・・・」や、祝詞のように「・・・言霊の助けによりて大神の御心を覚り、鎮魂帰神の神術によりて、村肝の心を練り鍛へしめたまひて・・・」などのように、言葉としての解説はなく、漢字一字、言霊一音という単刀直入な表現で凝縮整理されています。

     天津宮言は、水茎文字という創造主直々の筆先です。

     それに従って「語り」「動き」「思う」ことは、神の本体を知る手だてになります。

     これすなわち、鎮魂帰神の神術なのです。

     先に書きました感謝祈願詞「・・・言霊の助けによりて大神の御心を覚り、鎮魂帰神の神術によりて、村肝の心を練り鍛へしめたまひて・・・」の祝詞文にあるように、言霊(天津宮言)の助けをかりてこそ、神の御心を知ることができるのです。






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