2007/04/23  

第6話 ウエイターからスチュワードへ
〜主体的に生きることで道は開ける〜

大学に入り、しばらくはソロ活動は続けていたものの、学費と生活費、親への仕送りを稼ぐ必要のあった僕は音楽から次第に遠ざかっていくこととなりました。それまでの生活とは違って、一日のほとんどがアルバイトの生活となっていきました。

 

当初はコンビニエンス・ストアや喫茶店などのアルバイトをしていたのですが、それらのアルバイトではいくらがんばっても学費と生活費だけで終わってしまいます。少しでもたくさん稼いで親に楽をさせたいと思っていたので、もっと時給の良いアルバイトをしようと考え、結果的に水商売をしようと考えました。

 

そして最初に働いたのが、大阪・心斎橋にある有名なオールディーズのライブハウスパブでした。ドキドキしながらそこでウエイターとして働き出したのですが、そのお店は規律に厳しく、体育会系的な雰囲気でした。ウエイターの方々も厨房の方々も隙の無いような方々ばかりで、当時の僕からすると、ちょっと怖そうなお兄さんという感じで、今までに無い気の遣い方で働いていました。精神的にかなり疲れたことを覚えています。でも、時給も良かったので、精一杯働いていました。不器用な僕でしたが、笑顔だけは絶やさず接客をし続けていました。

 

 すると、働き出して2ヵ月後、いかにもお金持ちそうに見える紳士からお声をかけていただきました。「君、よくがんばっているね。歳はいくつだい?」「良い笑顔してるね」と。

その紳士はその後も3日に1度くらいは、僕の働いているお店に来てくださって、何かしら声をかけてくださいました。そして、1ヶ月くらい経った時、食事に誘っていただきました。

 待ち合わせの心斎橋・日航ホテルの前で待っていると、一台のリムジンが僕の目の前に止まりました。後部ドアから「バターム」という音と共にその紳士が降りてきました。

 

 そして、レストランへと行き、今まで食べたこともないような贅沢な料理が用意されていました。僕の生い立ちや夢、現在の生活のことなどの話を終えると、その紳士は僕に言ってきました。「どうだろう。今度、新しいお店がオープンするんだが、そこで働いてみないか?」と。オファーしてきた時給もとても良く、僕の心は思わず揺れ動いてしまいました。しかしながら、今、お世話になっているお店の方々に申し訳ないと思い、結果的に断ることにしましたが、その体験でわかったことは、「頑張っていれば、誰かが見てくれている」ことに気づいたのです。同時に水商売の世界は、実力主義であり、また、噂で聞いていた通り、引き抜きというのがあるのがわかったのです。

 

 それがきっかけで、しばらくして、僕はもっと水商売のスキルを磨きたくて、当時、大阪では入店するのが最も困難な人気店の一つと言われたあるディスコ(踊るところ。現在ではクラブとも言われる)の面接を受けに行くことにしました。100人くらいの若者たちが面接を受けにきており、運よく僕は採用の20人の中に入ることができました。

 

 そのお店はそれまで働いていたライブハウスより更に厳しいお店でした。営業前の朝礼(朝礼と言っても夕方にするのですが)では、「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」などと、声が出ているか?明瞭に発音されているか?などがチェックされます。ディスコは音が大きいため、その環境下でお客様とのコミュニケーションができるようにならなければならないので、声の大きさ・通り方は大切なのですが、チェックの際、声が小さければ、竹刀を持った部長に叩かれます。とても緊張感のある朝礼です。最初はとても焦りましたが、僕の場合、ボーカルをしていたこともあって、そのチェックに引っかかることはありませんでしたし、前の店で水商売の厳しさ、体育会系の雰囲気をわかっていたので大丈夫でした。

 

 とは言え、免疫の無い新人のアルバイトの人たちは怖かったことだと思います。また、厳しさだけでなく、人によっては先輩の嫌がらせなどもあります。僕自身もだいぶ嫌がらせを受けました。

1ヶ月経つと20人居た同期が半分に、3ヶ月経ったとき、同期は僕も含めて3人になっていました。それでも人気店だったので、次々、働きたがる若者が後を絶ちませんでした。そういう環境の中で、僕は黙々と働いていました。じっとしているのは嫌で、暇な時は掃除ばかりしていました。普段、誰も掃除しないところまで掃除していたのです。

 

 すると、その姿をそのお店の社長が見ていました。「君のようなスタッフは珍しい。明日からキャップをしなさい(※キャップとは、ウエイターキャップ=リーダーです)」と言われたのです。

 

▼リーダーになった頃。2年前まではモヒカン頭だったとは誰も思いません。(笑)

リーダーになったことで、それまで僕に嫌がらせをしていた先輩も嫌がらせはしなくなりました。それと同時に僕は、みんなが楽しく意気揚々と働けるように、店の雰囲気を変えていこうと努力するようになりました。

 1ヶ月もしない内にギスギスしていたスタッフの人間関係の空気は変わっていきました。空気が変わって、店の売り上げはより一層上がっていくこととなりました。

 

 その時、人は気持ち(意識)が変わることで、その可能性(潜在能力)は伸び、また、お店や会社、チームの空気(エネルギー)は変化して、良い結果を生み出すことを体験から学ぶこととなりました。

 とてもとても流行りました。僕自身もその世界では少しは名前が売れていくこととなり、同業他店からもたくさん引き抜きの声が掛かるようになりました。時は「バブル経済」の最中ということもあり、通常、学生では考えられない給与をオファーしてくるお店もありましたが、結果的には同業他店には行きませんでした。

同業他店には行きませんでしたが、以前から大学の親友に相談されていた彼が働いているカラオケ・パブに行くことにしました。50席ある個人経営の店ですが、当時、赤字続きだったこともあり、お客さんを紹介して欲しいとか、その友人によく相談されていました。

 

それで僕は、そこのオーナーと会い、店長として歩合給でそこで働かせてもらうことになりました。

当時はカラオケボックスは無い時代でしたから、カラオケを歌うとなると、パブかスナックのようなところでしか歌えませんでした。客層のほとんどはビジネスマンの男性で、ホールスタッフは3〜5人ほどで運営していました。

僕は女性の集まるところは「流行る」ということを前の店で見てきたので、女性客が集まるように仕掛けました。ディスコと同じで、女性料金を下げたのです。また、体験で培ったリピート率を上げるための接客スキルやお店の空気作りをスタッフたちに伝授していきました。

すると、それまではお客様の言われたことだけをこなす受身なウエイターたち(待っている人)が、機転を利かせ、主体的に考え行動できるスチュワード(お世話役)へと、ドンドン変化していきました。

 

▼パブ時代。こんな写真しかなくてすみません。前髪の立ち具合が時代を感じさせます。(笑)

リピーターは増大し、女性客も増え、男性客もより一層増え、お店は盛り上がりました。売上げも上がりました。平日でも予約がないと入れないお店へと変化していったのです。従業員も10人に増やし、益々お店は流行り、道頓堀界隈では有名なお店となりました。

 

入店して半年、優秀な部下が育ち、店長としてのゆとりも出来て、僕はそれまで蓋をしていた「秘密結社」についての研究を本格的に始めることにしました。

 

時はベルリンの壁が崩壊し、ソ連が揺らいでいた崩壊前夜の頃でした。周りの同級生たちも社会も「ジャパン・アズ・No.1」とバブルで盛り上がっていましたが、僕は冷めていました。

ベルリンの壁崩壊以降、バブル崩壊のカウントダウンが始まったと感じていました。新しい世界の再編成が始まり、共産主義国家から安い労働力が入ってくると予見し、当時最も人件費の高かった日本にとって試練の時代がやってくると考えていました。

また、冷戦構造が崩れ、世界が揺れ動くと、外交力の弱い日本はますますたいへんなことになっていくのではないかと危惧したものです。

 

それらも含め「日本経済の展望と課題」という題で、卒論を書きましたがそんな話を大学の同級生たちも教授も全く理解しようともしてくれませんでした。

 

バブルが崩壊してしまうまでは…。

 

 

 次回はミナミのパブの店長から北新地へ進展していきます。そして、そこでいろんな方々に出会います。

 時代はバブル崩壊前夜、「政治の世界」と「裏の世界」を垣間見ることになるのです。

次回へ続く

 

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