2007/11/05    

第1話 : 序章・魂とこころと身体一体の医療を目指して その1

「これでいいのか?!」

それは突き動かされるような強いおもいとして、そして静かに威厳をもって諭すような響きをもった「内なる声」として、こころの奥から聴こえてきました。

 

おもえば、この「内なる声」は、人生の岐路に立ったときに、羅針盤が絶えずあるべき道筋を示すかのように、こころの奥より切々と語りかけるようにして、いつも僕を導いてくれたのです。

 

この「内なる声」を始めて聴いたのは、20歳のときでした。

子供の頃より医師を志しながらも、現実には医学部でない大学にいたときに、「内なる声」は、僕が無理に忘れようとしていた本心を目覚めさせてくれたのです。

 

そして今回は2年半程前、医師となり早20年が経っていました。

他の医師や患者さんからの信頼を得て、専門家としての実績も築け、自分としては、子供のときから思い描いていた医師になれたのではないかと思っていました。

 

専門医としての仕事、放射線科部長としての地位、いくつも舞い込む仕事から得られる収入、県内で自分にしかできないCTを使った肺癌確定診断のための特殊技術、などなど。

 

しかし、そういった地位や収入、そして他人からの評価といった満足感は、うわべのものであり、自分がほんとうに望む医師の姿ではないと、「内なる声」に気付かされたのでした。

 

今からちょうど1年前の2006年10月。地方の中核病院の院長室での会話です。

 

「大変お世話になりました。来年3月いっぱいで現職を辞したいと思います」そう切り出した僕に、

「えっ!どうしたのですか。いったい何か不満があるのですか?」僕に大変信頼をおいてくれていた院長の驚きの言葉です。院長の言葉は続きます。

 

「最新の診断や治療機器の導入も予定しており、病院としては、塚田先生にこれからもっと活躍してもらいたいと思っています。今までの実績を投げ捨ててどうするつもりですか?」

「はい、東京に行って、新しい医療にチャレンジしたいと思います」

「新しい医療?どうしてそんなことを思ったのですか?」と院長。

「医師になろうと志した自分の初心に帰りたかったのです」と僕は答えました。

「塚田先生のその初心とは何ですか?」と院長。

「目の前で『先生元気になりました!』という患者さんの笑顔をみたいことです。」

「それは、今のままでは充分ではないのですね?」

「はい」

「いったいその新しい医療とは、何ですか?」、院長は執拗に聞いてきます。

「薬に頼らず、根本的な治療を目指した医療です」

「薬に頼らないで、病気を根本的に治す?そんな医療があるのですか?」

「はい!」

と元気よく返事をした僕に、現代西洋医学一筋できた院長には、とうてい理解し難い、といった顔つきでした。

「だいいち、よくわからないその新しい医療で、東京での収入は大丈夫なのですか?」

今度は経済的側面からの質問です。

 

こんな会話がしばらく続き、説得しても僕の辞職の決意は変わらないと、院長は理解されたのか、ようやく僕は院長室から開放されました。

 

院長の疑問は、ほんとうに自分が望む医師の姿に気付く前の自分であったならば、しごく当然に思えたでしょう。しかし現状が自分のほんとうに望む場ではなく、新しい方向性を知った今、もうこのままここに留まることはできませんでした。

 

確かにそれまでは、僕自身こころの奥で「何か」を感じながらも、雪国に憧れて来た、慣れ親しんだこの新潟の地、この職場で、定年退職を迎えるまでひとりの勤務医としてまっとうすることで、自分の子供のときからの「医師となってひとを助ける」という志は遂げられると、言い聞かせていたのです。

 

しかし、「内なる声」は、僕が現状に留まることをけっして許してはくれませんでした

 

「これでいいのか?!」

「今のままでいいのか?!」

「お前にしかできない、医師としての仕事があるのではないか?!」

「おまえのほんとうになりたい医師としての姿は何なのか?!」

「こころ素直に感じるままに探してみなさい」

そう、語りかけてきたのです。

 

この「内なる声」を無視して、一見何の不満もない現実の生活を続ける、という選択肢もあったのかもしれませんが、それはおそらく無駄な抵抗であったでしょう。もしその選択をしたときには、僕は、現実と自分自身の本心との矛盾で起こる葛藤の中で、きっと押しつぶされてしまったでしょう。

 

そこで、僕はそれまで意図的に避けてきた、「感じていた何か」、を明確にするために自問を始め、「内なる声」の言う「自分がこれから目指す医師の在り方」を探し始めました。

 

その自問は、「現代西洋医学への疑問と限界」から始まり、次第にその疑問と限界への挑戦となり、ついにはその挑戦の具体的体現として、「全人的に癒せる医師」という、将来自分が目指したい医師の姿となって現れてきました。

 

この「全人的に癒せる」とは、患者さんのこころと身体、さらにはこころの奥にある永遠性にまで視点をおいて癒す、ということを意味します。

これについては、後ほど詳しくお話するつもりです。

 

現代西洋医学は、確かに素晴らしい点がいくつもあります。

そのひとつには、炎症や外傷などの急性疾患に対する治療があり、さらには僕の専門でもある画像診断の分野においてです。

 

特にCTやMRIなどの画像診断は、コンピューターの進歩に比例して驚く程の発達を遂げ、今ではまるでハリウッド映画を観るかのようにして、病巣部の臓器を3次元画像にして映し出してくれます。

 

しかし、近年現代社会はストレスがきわめて大きくなっており、これが原因のひとつと考えられる、うつ病や不眠症、慢性疲労症候群や自律神経失調症などが急増しています。これらの疾患に対して、薬物投与中心の、すなわち唯物的立場での治療を行っている現代西洋医学に対して、僕は疑問と限界を感じるのです。

 

また、その唯物的観点からの追求ばかりに目を奪われ、人間がこころをもった永遠なる存在であるという、人間本来の神聖な観点に眼を向けることを置き忘れてしまいました。さらには置き忘れただけでなく、人間の永遠性そのものを否定する立場をとる医師が、残念ながら現状ではほとんどです。

 

現代西洋医学が、人間の肉体的な観点のみでこころを忘れ、病気の原因を身体だけに目を向けた結果、各医師は臓器別の専門化を目指し、まるで機械のパーツを扱うかのように、病気を臓器の異常だけとして捉え、そのことにもはや何の疑問も感じることすらなくなってしまいました。

 

こうして現代西洋医学のみを信奉する多くの医師たちは、患者さんを診るときに、障害をもった臓器を診るだけで、こころや、ましてや永遠性をもったひとりの人間として、患者さんを全人的に診ることができなくなってしまっているのが現状です。

 

これは、「人間は永遠なるこころをもった神聖な存在である」という信念を持つ僕には受け入難いことでした。このことも、僕には現代西洋医学への大きな疑問と限界に感じられました。

 

次回は、臨床の場で、僕が現代西洋医学への疑問と限界を感じたある患者さんたちとの出会いからお話を進めていきます。

 

 

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