2007/12/03    

3話 鉄道技師を天職とした父の生涯(1)

ここから、生涯鉄道技師を天職とした父の人生を語りたいと思います。
まさに激動の昭和を鉄道一筋で生き抜いた人生でありました。

父、塚田一道は、大正14年8月8日、5人兄弟の長男として群馬県高崎市に生まれました。父の上に長女と下に3人の弟がいました。

父の父、僕の祖父は、埼玉県深谷市蓮沼の庄屋の息子として生まれたものの、長男でなかったため家を飛び出し、当時の国鉄に勤める鉄道員でした。その影響もあり、また家庭も貧しかったため少しでも家計を助ける意味もあって、父は小学校を優等で卒業しましたが、他の同級生たちのように旧制中学に進学することなく、東京・上野にある岩倉鉄道学校に進みました。

その後、兵役での1年、そして人生最後となった闘病生活での2年近くを除いて、生涯測量士・一級土木施工管理技師であった鉄道員としての人生をまっとうし、平成6年11月4日、脳梗塞リハビリ中に急性心筋梗塞を併発し、その生涯を終えました。享年69歳でした。

僕にとっての父は、勤勉にひとずつ積み上げていく人、正確さ・緻密さ、真面目な人、何事も一生懸命な人、明るく陽気な人、器用な人、休むということを知らないひと、とにかく仕事に情熱的な人、何よりも「ものをつくる」ことが大好きな人、そしてときおり短気な人という印象でした。

僕は3人兄弟の末っ子の次男ですが、9歳と7歳年上の姉と兄にとって若いときの父は、大変厳しく怖い父であったようです。しかし、僕は父に一度も叱られたという記憶がなく、僕にとってはほんとに優しい父でした。

父を語るにあたって何よりも思い出されるのは、脳梗塞による闘病生活が始まる直前に書き終えた「軍隊生活の1年」という手記です。

父の19歳から20歳までの、まさに多感な時期の1年間の軍隊生活を綴ったこの手記は、父というひとりの人物を語る上でも、また当時の日本軍の軍隊の実情を知る上でも、とても貴重な記録となりました。そして何よりも今、僕たち兄弟が父を思い出し、とても身近に感じられる一番の宝となりました。

この手記は、鉄道技師としてたくさんの鉄橋や高架それに線路工事の施工・監督をしてきた父にとって、残念なことに最後の仕事となりました。それまで親兄弟にもほとんど語ることがなかった軍隊生活を書き残したのは、無意識の内に、父は自分の死期が近いことに気づいていたのかもしれません。

この手記を書いたとき父は67歳でしたから、19歳からの1年間の軍隊生活を書くためには、自分の48年前の記憶をたどることになりました。戦友や上官の名前はもちろんのこと、出兵した当時の中国での場所、日時、現地の人間のそのときの表情まで克明に書かれている内容を見て、その記憶力のよさに驚かされると同時に、何よりも戦争という極限状況下での経験は、生涯忘れられないほどの強烈な印象となって、父の記憶に残ったのではないかと推察されます。

それに比べて、もし僕が、今の僕にとって約40年前になる父と同じ19歳からの1年間の出来事を綴れ、と言われたとしても、2つ、3つくらいの些細なエピソードしか思い出せず、ましてやそのときの日時などをまったく思い出せない事実に直面すると、当時をどれほど真剣に父が生きていたかを知り、自分がはずかしくなります。

これから、父が書いた「軍隊生活の1年」というB5版62ページにわたる手記を抜粋しながら、当時の日本軍の実情を通して父という人物像を紹介していきたいと思います。

手記「軍隊生活の1年」− 徴兵検査から出兵

『昭和19年頃ともなると大東亜戦争も段々と熾烈になってきた。この年から今までの徴兵検査の年齢が満20歳から1年繰り下げられて満19歳からとなった』

手記はこの文章から始まります。

『「国の為に尽くす」「祖国の永遠の繁栄の為に尽くす」この言葉が当時の私達のこころに強く教育されたし、私達も当然のこととしてそのことを受け止めていた。だから徴兵検査を受けた私は、死ということにそれほど恐怖感を抱かず「国家に尽くす時が来たな」、と心を決めていた』

召集令状が来たときは、父は当時の国鉄の職員で、高崎駅の保線事務所に工事士として勤務しており、まだ19歳の若さでしたがすでに幾人かの部下もいました。

しかし、「祖国のために自分の身命を賭す」という決意を、19歳の若者が当時は誰もが抱いたということは、あまりに利己主義になってしまった現代と、まさに隔世の感があります。

ともかくも、徴兵検査で甲種合格となった父は、出征軍人の三種の神器である、「日の丸の寄せ書き」、「千人針」、「神社のお札」をもって、父母や職場や近所のひとたちの万歳三唱の中、昭和19年10月1日、故郷である高崎から千葉県の鉄道第17連隊第3中隊に入隊しました。出征直前に、父の母は、父に対して「一道、醜い死に方はするなよ」とだけ言って父の手を強く握り締めました。

話は変わりますが、父の母の死に立ち会えたのは、様々な事情で父ひとりでした。死に行く母の手を今度は父が強く握り、やつれて小さくなった両手をそっと母の胸の前で組ませてあげたそうです。

今回のお話はここまでで、次回は、異国の地、満州哈爾浜(ハルビン)での父の軍隊入隊後の初年兵教育の話となります。一兵士の生の軍隊生活の実体験が、強烈に伝わってきます。 

 

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