2007/12/17    

4話 鉄道技師を天職とした父の生涯(2)

前回は父の生い立ちから出兵まででしたが、今回はいよいよ軍隊入隊後の初年兵教育が始まります。

 

手記「軍隊生活の1年」− 哈爾浜(ハルビン)での初年兵教育の3ヶ月

 

『入隊3日目の朝、初年兵全員が集合させられ、満州ハルビンで初年兵教育を受ける話があり、その日の内に客車に乗せられて下関へ。下関から朝鮮半島の釜山までは、輸送船であった。この区間は当時非常に危険で、敵の潜水艦が出没したり、飛行機の爆撃で輸送船が沈没させられたりしていたので、航行は夜であった。

 

玄界灘は荒れる海で、船足も遅く私は始めての船旅であったから、船酔いも激しく食事も一回も食べず苦しみのうちに釜山に到着した。

 

釜山からは有蓋の貨車で、貨車は上下2段に仕切られ、座るところはワラの上にムシロを敷いたもので、家畜並みであった。』

 

軍隊が貨車に乗っていることがわかるといけないので、貨車には窓もなく、30cm四方の換気口があるだけの中で、5日間ほとんど身動きの出来ない状態だったと云います。

 

『ハルビンはまだ初夏のような暖かさで、空は澄み切って、木々は緑に覆われ、見渡す限りの平原が続き、始めて眺める満州の大平原で、これが大陸的な風景かと感慨無量であった。兵舎は赤煉瓦造りの2階建であった』

 

こうして昭和19年10月9日。入隊して9日目、父は初めての異国の地ハルビンに到着しました。ハルビンは、現在の中国のもっとも北部に位置する黒龍江省の省都にあたり、中国東北部の経済文化の中心のひとつとなっています。残留孤児の方なども多くこの地に住んでいると聞きます。

 

初年兵教育は、前年度まで6ヶ月間でしたが、父たちからは3ヶ月間に短縮され、この期間に、軍隊としての行動の仕方、戦闘時の行動、銃や剣の扱い方、それに戦車攻撃に重点をおいた教育が始まりました。また鉄道部隊であったことから、枕木運搬や犬釘(枕木を留める釘)打ちなどの作業もありました。

 

『枕木は内地の軌間(レールの幅)1.0637mと異なり、ここ満州では1.435mと幅の広い分だけ長く重く、なんとも扱いづらい。これをひとりで担いで広い訓練場の中にあった大きな木をひと回りしてくるのだが、力の無い私などは、担ぎ始め30mは行くが、後は段々と小刻みに休み、しまいには休むときに枕木を地面に落とし、立てかけるまでに苦労した。

 

他の人を見ると、みんな私のように苦労していた。私は出発点を見ないで、死力を尽くしてゴールだけを見てなんとかたどり着いたが、息絶え絶えであった。1時間くらいもかかったのかもしれない』

 

また、犬釘打ちでは、

 

『犬釘打ちは、ハンマーで直径50cm位の木の台に釘を打ち付けるのだが、薪を割るように立った姿勢でハンマーを打ち下ろすのではなく、腰もハンマーと一緒に下ろして打つ。これを幾百回もやると、その日の夕方から腰が痛くなる。一番困るのは大便所に行った時で、何とか屈むが、用が終わって立ちあがる時に、腰を少しでも上げると腰全体に針を打たれたように痛くなりまた屈み込む。

 

時間が経つのでしかたなく、涙を流しながら両手を壁にもたらせて立ち上がったが、立っても暫く動くことも出来ない。10分位かかったであろうか。その後便所に行くのが怖かったが、自然現象には逆らうことも出来ない。何とか治るまで1週間悪戦苦闘が続いた』

 

軍隊に入隊し、初めての異国の地での父たち初年兵教育の訓練は、こうした過酷のものでありました。そして制裁。軍隊ではことあるごとに、この制裁、いわゆる「びんた」が日常でした。

 

『軍隊には個人というものはなく、すべては「全体責任」であり、戦闘が始まれば、兵の中のひとりの失敗が隊の全滅を意味するわけで、制裁はそのことを体罰でもって身体に染み込ませてわからせる、という意味であった』

 

 『自分ひとりだけ巧くやっても、誰かひとりが出来ないと全体で制裁を受ける。私のように早く、巧くやる者にとっては、とても我慢の出来るものではなかった。まだ若かったせいもあってか、この事に関しては「要領」を使う余裕がまったくなかった』

 

 しかし全体責任を負わせる意味でのこの制裁にも、例外はあったようです。

 

『訓練が終わった後に、同じ初年兵の中には、「ゲートル(下腿に巻く包帯のようなもの)を取らせて頂きます!」と言って、上官や古参兵のゲートルを解いたり、銃をもってあげたりなどの見え透いた機嫌をとる、つまり「要領」を使う者もおり、そのことで彼らへの制裁は明らかに軽減された』とあります。

 

『軍隊用語で「要領」、「要領を使う」と言うのがある。この上手、下手はどこの社会でも同じで、下手なひとは大変損をすることに変わりはないが、軍隊では明らかに目に見えてすることが必要不可欠である』

 

 そうは言っても、馬鹿正直でひとにお世辞を使うことなど一切できない父は、この「要領」を軍隊で使うことなど到底できるものではありませんでした。

 

 制裁の記述は続きます。

 

『ビンタだけではマンネリとならないようにと、銃を捧げ続ける、水の入ったバケツを持つ、梁に抱きつきセミの泣き声を出す、兵士同士が向かい合って互いにビンタをする。これらの制裁を全部受けたが、ビンタは打たれた時は痛いが、時間が早くていいと皆が言っていた。

 

「捧げ銃」を20分もすると、両手が棒のようになり、手を下げるとビンタがとぶ、わが班の体は大きいが動作の鈍いその人は、勘弁してくれと大声で涙を流して泣いた。泣いたとて中止になるわけでなく、余計にビンタがとび、いつまでも泣いていた。

 

その泣き声は本当に心の底から絞り出た悲しい響きで、これが男泣きかと今でも自分が悲しい時に思い出すことがある。私たちも泣くわけにもいかず、ただ私はその人の過去に苛められたことの無い幸福な生活を思い浮かべ、時間の経過を待っていた。』

 

現代は毎年3万人以上の自殺者が出ており、ストレスが多くなった社会が問題になっていますが、父の部隊の初年兵からも、『この厳しい訓練で幾人かが便所の中で首を吊って自殺をした。性格の弱い者、空腹、重労働、体罰これらについて行けないのであろう』とあります。

 

先ほど登場した大泣きをしたそのひとも、入院となり、その後2度と隊には戻って来なかったそうです。

 

『サーカスに出るために、訓練されていく熊のようにムチとアメの厳しい毎日であった。ただ一日が殴られる回数を少なくして過ぎることだけに気を使う日々になってきた』

 

現代のわれわれが、今この当時の軍隊生活に入ったならば、どれほどの者がこの生活に耐えられるでしょうか…。

 

次回は、厳しかった3ヶ月の初年兵教育を終え、一等兵に昇格した父に、大きな人生の決断が待っていました。父にとって天職とは?そして戦局も次第に厳しいものとなってきます。

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