2008/01/14    

6話 鉄道技師を天職とした父の生涯(4)

 

前回は生涯鉄道員、鉄道技師が天職であると決断した父の話でしたが、今回はいよいよ戦局厳しく、ついにソ連との戦闘状態を向えます。

 

手記「軍隊生活の1年」−釜山から吉州へ ソ連参戦そして敗戦帰国

 

こうして「身辺整理」をした父たち兵士は、実弾30発を渡され完全武装し、その日の夕方には釜山近くの駅から貨車に乗り、ソ連との戦闘のために北上を始めました。『実弾の鈍い光と重さが私のこころを揺さぶった』とあります。

 

『私達を乗せた軍用貨物列車は北上して行くが、停車する駅で見る南下して行く列車には、旅行者と違い、はっきりと引揚者とわかる人達で満員であった。それらの人達は大田(テジョン)駅を過ぎる頃からは、身なりが段々と普段着姿となっていき、デッキの手摺りに掴まってまでして乗っている状態となった。

 

われわれの貨車は、さらに京城(現在のソウル)を通り、高原地帯(北緯38度線のある地帯)を走り元山(ウォサン)からさらに北上を続けた(朝鮮半島の日本海側を北上)。この頃になると引揚者の状態はさらに深刻で、機関車の石炭車の上にまで乗り、目の色が変わり落ち着きがなく、放心したようであった』

 

こうした引き揚げの混乱の中、残留孤児となった方たちが多く出たのでしょう。

 

昭和20年8月初旬、暑く、良く晴れた日に、父たちの中隊は吉州(キルチュ、北緯41度付近)という駅に降り立ち、駅近くの吉州小学校に駐屯しました。隊は吉州駅を中心として前後幾つかの駅の守備と輸送を受け持つことになりましたが、父は国鉄に在籍し、駅に詳しいということで吉州駅の軍人駅長待遇となり忙しい毎日となりました。

 

翌日からソ連の爆撃が、この吉州駅や学校を目標に連日早朝から繰り返し行われるようになりました。

 

 『日本軍の対空砲火も飛行機も飛ばないから、敵は段々と大胆になってきた。我々も何回空爆を受けてもかすり傷ひとつ受けないので、こちらも段々慣れてきて、爆撃も習慣のようになってきた。

 

気が立っていて「俺だけは死なない」という自信のようなものが沸いてきて大胆になり、空襲警報が鳴っても、ゆっくりと避難していると、ソ連の戦闘機が校舎目掛けて急降下し、操縦士が見える様な低空で機銃掃射を始める。銃弾が校庭に小さい砂煙を5〜6m置きに上げて飛んできたので、全速力で防空壕に転げ込む。

 

こんな光景もあったが、我々鉄道隊は持っている火器は小銃だけ。ただ敵に翻弄されているばかりで、ここで死を待つだけかと思うと、退避する度に情けなくなりながらも歯を食いしばった』

 

そんな空爆の毎日でありましたが、その合間に父は好奇心から吉州という町を散策しました。

 

『我々の居る学校のある所は駅の裏側で、畑の中に民家が点在している程度である。町の中心は表側で、広い駅前広場が続いており、100m程行った所で幅10mくらいの道路が直角に交差している。

 

町の造りは日本の何処にでもある木造の家並みで、日本にいて散歩している錯覚がする。ただ違うのは、ソ連の参戦により、国境に近いこの町の日本人も、朝鮮人も皆急遽撤退したらしく、人がひとりもいないことである。雨戸の閉まった家、戸の開いた家、その家から人が出て来そうな生活の匂いがするが、まさにゴーストタウンであった。急に息を引き取った、まだ体温のある無口の死人と対面しているようで、今思い出してもゾッとする』

 

敗戦そして帰国

 

 昭和20年8月15日。その日がいよいよ父たちの隊にも近づいてきました。

 

『激しく続いていた空襲もある日を境に急に数が少なくなり、それと同時に上官達が集まってはひそひそ話しをするようになった。顔つきはどうも真剣であり、重大な話らしい。話は段々漏れてきた。噂の内容は、「日本はこの戦いに負けて、815日に何かラジオで放送があるらしい」

 

然し私達兵にはラジオは無論無い。翌16日も戦闘機が高度で上空を飛んでいったが、爆弾は落とさなかった。そしてその翌日17日からは戦闘機はもう飛んでこなかった。

 

 私なりに「噂は本当であった」と理解した。駅での勤務は続いていたが、次第に北の方から引き揚げてくる部隊がぼつぼつと現れ始めた。その日各駅に分散していた部隊全員が校庭に集合し、部隊長の訓示があった。

 

話の内容は、「815日に天皇陛下の放送があり、戦争は終わった。部隊は直ちに釜山に転戦する」ということであった。敗戦といった表現はなく、また一番心配なこれから部隊はどうなるかといった事は何も話されなかった。

 

部隊はいつもの様に貨車仕立ての軍用列車に乗り、列車は来たときと反対方向に進んだ。

これから自分たちはどうなるのか、捕虜になるのか、内地に無事帰れるのか、貨車の中で兵達は皆無口であった』

 

敗戦となっても父たちは、実際にはすぐに帰国できず、9月下旬まで釜山港駅の警備の任務にあたっていました。しかしすでに敗戦している国の兵隊となり、今までのように町を歩くことは出来なくなっていました

 

『負けて始めて国の力を汲々と感じた。満州に居たときと変わって、毎日をびくびくしてその国のひとの顔色を伺って生活しなくてはならなくなった』

 

そんな父たちにもようやく帰国の日が来ました。

貨車で釜山港桟橋まで行き下車して、米軍の物品検査を受けてようやく乗船。

 

『船は米軍のリバティー型上陸用舟艇で、喫水線が浅く出来ているから速度が出ない。博多まで24時間はかかる話であった。船足が遅いから船は揺れて気持ちが悪い、途中食事も出たが食べるどころではなし、ただ荷物に寄り掛かって目をつむって、吐きそうな気分を抑えているだけである』

 

『昼過ぎになって、誰かが山が見えるぞと叫んでいる。私は船酔いを押して船倉からデッキに出てみた。船の進む方向に山並みが見える。はっきりとした低い山が横に長く続いている、それが段々と近付いて来る。

 

船酔いも飛んで体中から元気が出てきた。生きて帰って来た実感が沸き、自然に涙が込み上げてきて流れた。この時ほど故郷の山々が懐かしくおもえたことはなく、いつまでもデッキの手摺りに掴まって眺めていた。戦友たちも皆デッキに出てきて、思い出に耽って山を見て泣いていた。

 

昭和20929日である。おもえば去年の101日千葉県の津田沼の鉄道部隊に入隊、すぐに満州に行ってから満1年。私の人生で一番長い一年間であった』

 

船は博多に着き、上陸した部隊は直ぐに解散し、父たちは除隊となりました。そのときに、家に帰るまでの食料として、米2升と缶詰10個が渡されました。ここから同じ故郷の4人の戦友たちと、互いの大きな荷物を持ち合いながらして、機関車の石炭車の上に乗ったり、窓から入ったりして乗り継ぎ、4日目の朝9時、ようやく故郷群馬県の高崎に着きました。ここで戦友と別れを告げ、ついに父の軍隊生活の終わりとなったのです。

 

父の軍隊生活の手記から、伝えたいことはまだまだ山ほどあります。始めは痒くてたまらなかったノミやシラミも、慣れてくると軍服にびっしりといてもぐっすりと寝込んでしまった話。極寒の地で自分や古参兵たちの下着を洗濯した話。凍傷の予防や眠って凍死しないように互いの体を蹴るなどしてこれを乗り切った話。乳が出なくなり死んでしまった乳飲み子を幾日か抱えていたが、腐るので線路脇に置いてきた引揚者の話などなど。現代のわれわれに一生に一度あるかないかの強烈な経験を、父たち若い兵士たちは経験したのでした。

 

 次回は、帰国後国鉄に復帰。そして経験した大惨事。幾多の修羅場をくぐりぬけて来た

父の生涯を語る最終章となります。

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