2008/02/18    

8話  母

 

母、塚田静枝、旧姓小林静枝は、大正14年5月10日、当時群馬県碓氷郡松井田町の坂本(現在は安中市坂本)に生まれました。3人兄弟の長女として育ちました。

母の父方の祖父(僕にとっての曽祖父)は、現在の群馬県安中市磯辺の村長の長男で、母の父方の祖母(僕にとっての曾祖母)は、群馬県の碓氷郡松井田町にあった庄屋の娘でありました。明治という当時としてはめずらしく、どちらも家を継ぐことなく飛び出して結婚したようです。

 

 母の両親は、母が尋常小学校3年生のときまでに、どちらも病で亡くなりました。そのため、母にとってこの祖父と祖母が両親のような存在であったと聞きます。

 母が育った坂本というところは、軽井沢町が隣となる長野県との県境で、難所で知られた碓氷峠を登っていく手前の、まさに坂道が続く宿場町でした。時代は明治から大正そして昭和の初期。行きかう旅人も多く、ときには行き倒れになった人も出たと聞きます。

母の祖父は、そんな旅人を見つけては、自宅に寄せてご飯を食べさせ、いくらかの路銀を与えて励まして、また旅に送り出していたそうです。また魚の行商に来た人にも、残った魚を全部買い取って、その労をねぎらう気前のよさもあったと聞きます。

 母の祖母は、母のことを「シズ、シズ」と言ってかわいがってくれ、山への薪取りや村のお祭りや芝居などに、いつも母を連れて行ってくれたそうです。

 またこの祖母も祖父と同様、近所に貧しい家があると、採れたての野菜やお米を、「シズ、これを人様に気づかれないようにして、そっとあの家に届けるのだよ」と、早朝などに母に持たせたといいます。

母は両親には早くに先立たれましたが、この祖父母により明るく、しかし躾は厳しく育てられました。

母の父(僕にとっての祖父)は尋常小学校のときに教室の前に座る女の子のお下げ髪をひっぱるなどのいたずらをしては、よく教室の外に立たされていたそうです。ある日、いつものようにいたずらをして教室の外で立たされていたときに、教室の中の生徒が算数の問題に誰も答えられないでいると、教室の外から「ハイ!先生。ハイ!」と元気に手を上げて答えていたという、とっても茶目っ気のある父だったようです。

地元の尋常小学校卒業後、母は高崎市にある女学校に入り、卒後は、当時戦時中のため男子が徴兵されていたことから、国鉄初の女性出札係りとして高崎駅で切符を売るなどの仕事に就きました。戦後は信越線横川駅近くの国鉄の診療所で働き、そこで同じ歳の父と出会い、21歳で結婚しました。

 結婚後は姉、兄そして僕の3人の子供たちを育てる専業主婦となりましたが、42歳のときから10年以上高崎市役所で事務の仕事をしていた時期もありました。

 僕にとって母は、元気な人、思いやりのある人、人懐こくて誰にでも声をかけて明るい場を作る人、努力の人、信仰心が厚い人、ひとの悪口をけっして言わない人、そして子供時代はちょっと怖い人でした。

 父には一度も叱られたことはありませんでしたが、母にはときおり叱られていました。

それは、僕が夕方暗くなるまで外で遊び過ぎて、こっそりと家の裏口から帰ったときなどでした。僕の子供の頃は時代のせいか、学習塾に行くとか、習い事をするとかいったこともなく、小学校時代は授業が終わればすぐに鞄を玄関に放り投げて、校庭や城跡の公園で野球ばかりしていた毎日でした。

それにしても、野球が終わった後、近くのお肉屋で、当時10円だったコロッケにソースをつけて新聞紙にくるんでもらい友達と食べたあのおいしさは、今も忘れられません。

母も父と同様、僕に勉強しろとか、やかましいことはほとんど言いませんでしたが、母の語ったことで僕に残っている言葉は、「実るほどに頭を垂れる稲穂かな」や、「どんな些細なことでも、それをしあわせと感じられることが、何よりもしあわせだよ」といった言葉でした。

また、母は、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」の挨拶、人様に何かしていただいたら必ず「有難うございます」そして「お世話になります」これらの言葉が、ほんとうに身体に染み込んでいる人でした。

姉夫婦が教員をしていたので、市役所を退職後は日中ふたりの孫を育てていましたが、この孫たちもそのお陰で、挨拶やお礼が自然にしっかりと身につきました。どなたかに何かものを頂いたときに、孫たちがいつも自然に「ありがとうございます」と言うので、近所の人たちに感心されていたそうです。

42歳で再び仕事に行き始めた頃から、趣味に詩吟を初め、師範まで取り、武道館で開催された全国大会で代表として詩吟を朗詠したこともありました。さらに50歳を過ぎてからは書道を初め、これも師範を取るまで、日中の仕事や退職後孫の面倒を見た後、毎週夜塾に通っていました。

父の最後の2年間の闘病生活では、脳梗塞のリハビリとなった病院で、父のベッドの横に簡易ベッドを置いて寝泊りし、父のリハビリ訓練をしたり、車椅子を押したりと、24時間付きっ切りで看病する献身ぶりでした。

今母は姉夫婦の元に引き取られて暮らしています。実の子の私たち以上に親身になって母の面倒をみてくれる義理の兄と姉に見守られて、父には早くに先立たれましたが、母はしあわせなのではないかと思います。

ときおり母のいる姉の家に僕が帰ったときは、子供の頃に母が僕の手を引いてくれたように、今度は僕が腰の曲がって小さくなった母の手を引いて、すぐ近くの公園に一緒に歩いていきます。先日もふたりで陽だまりのベンチに腰掛けていると、目の前の、親子3人で縄跳びの練習をしている小学生の男の子に向かって、「僕上手だね、それ頑張れ、頑張れ!」と手を叩いて母は声援していました。

最近僕は、街や電車の中で母親に抱かれている子をみると、自分もこのように母に抱かれて育ててもらったのかとおもい、涙が出てきます。

今年で82歳。身体もかなり不自由となり、だいぶ痴呆症状も現れ、今は毎日近くのデイケアセンターにお世話になっています。毎朝自宅まで迎えに来てくれた車に乗るときも、ヘルパーさんや運転手さん、それに同乗のお年よりの方々にも、「おはようございます」と元気のよい挨拶と「ありがとうございます」そして「いつもお世話になります」と必ず言っています。

デイケアセンターでも、人気者らしく、母が行くのを皆楽しみにして待っていてくれると聞きます。同じセンターに通うお年寄りや、職員の方からもよくいろいろな相談をされるそうですが、けっしてその話の内容を他の人に話すことはなく、またけっしてひとの悪口を言わないので、みんな母をとてもかわいがってくれています。

 母は、今年もデイケアサービスセンターから何回目かの感謝状を頂きました。そこには

「塚田さんがデイに来てくれる日は、とても楽しく明るい一日になります。そしていつも優しく素敵な笑顔でわたしたちを幸せいっぱいにしてくださり有難うございます。ここに深く感謝の意を表します。」

 と書かれています。まさにこの言葉を、そのまま僕も母に伝えたいとおもいます。

お母さん「僕を生んでくれてありがとう!育ててくれてありがとう!」

親孝行などということは何も出来ていない僕ですが、お母さん、「ほんとうにありがとうございます」

 さて、次回からいよいよ僕が「内なる声」に導かれるようにして、医師になり、真理に目覚めていった話に入っていきます。

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ