2008/06/09    

第11話 真理探究の始まり

 

前回は、上高地の山中で、「すべてを活かす大いなる存在」との一体感や、「宇宙に遍満する神の存在」への気付きがあったことをお話しました。このように、ひとが、「自分は何か大いなるものに活かされている」と気付いたり、また「大いなる存在としての神」に出会ったりするのはどんなときでしょうか?

最愛のひとや全財産を失ったとき、病や老いて自分の身体が不自由になったとき、そして余命を知り死に直面したとき、親兄弟や仕事を含めた様々な人間関係に悩んだとき、などなど、ひとにより様々な出来事があるでしょう。しかし、いずれにおいても、この「大いなる存在」や「神」との出会いは、苦悩の渦中にあるときではないでしょうか?

残念ながら喜びの最中、人生絶好調とおもうときに、ひとは自分が大いなる存在や神に生かされているということに気付くことは極めて難しいようです。また、とても残念なことですが、困難の最中にあっても、神の存在に気付かぬまま人生を過ごしてしまうこともあります。

私は、人生はまさに学校と同じだと思うのです。たとえば、小学校3年生は3年生レベルの問題集を解けるようにならなければ、4年生に進級できません。その問題ができるまで繰り返し同じ問題に取り組まなければならないのです。人生もひとそれぞれに問題のレベルは異なりますが、今、自分の人生の目の前で起きている「辛い!苦しい!困難だ!」、と嘆いている出来事こそが、まさに今の自分が解かなければならない、自分の魂を磨くためにある問題だと思うのです。

たとえ、そのときにその問題を解決しないでうまく逃げることが出来たと思ったとしても、本当におもしろいことに、登場人物や状況は異なるかもしれませんが、自力で問題が解けるまで、何度でも本質的に同じ内容の問題が自分の人生の途上に現れてきます。

だから、苦しみや嘆きとおもう今の自分の人生の問題に逃げることなく、むしろこの問題を解くために生まれてきたと思い、真正面にその問題に向き合って果敢に取り組むべきなのです。「神様は、解決できない問題はその人には与えない」といいます。けれどもその人にとって簡単な問題も出しません。なぜなら簡単な問題では、魂が磨かれないからです。

小学校3年生にはもう2年生の問題は出されません。その人の能力にとって限界に近い難しさの問題が出されるからこそ、頑張れるのです。そしてその問題を解決して初めて、人生から学んだひとつの「知恵」を獲得することが出来るのです。人生の目的は、この経験から得た知恵を獲得していくことでもあると思います。そしてその努力の分だけひとつ進級でき、また次なる上のステップが展開していくと思うのです。そうして魂が一歩一歩向上、進化していくのでしょう。

さて、前置きがだいぶ長くなってしまいました。すべてを活かす、大いなる存在としての神に目覚めた後、「真理を探求したい」という強い思いが湧き上がり、それまで見向きもしなかった宗教に、それ以降何の抵抗もなく入っていました。

仏教にしろ、キリスト教にしろ、また新興宗教にしろ、真理を探究するにあたって、自然と、私には初めから2つの姿勢があったようです。

ひとつは、

「真理はひとつである」

すべての教えは、太陽のようなひとつの真理という光から、四方八方に広く照らされたものである。だからどの宗教の経典を学ぶにあたっても、その言葉や表現や考え方の「違い」を見つけていくのでなく、その教えの奥深くに流れる「同じ」源流を見つけるようにして学んでいこう、という姿勢でした。

だから、私にとっては、キリスト教と仏教の違いと言われる一神教や多神教といった問題は、とても大きな問題なのでしょうが、まったく関心がなく、只々、仏陀やイエスの教えであるひとを幸せにする真理を知りたい、ということのみに関心がありました。

もうひとつは、

「真理は日々の実践の中にある」

どれほどの経典を学び、そのすべてをたとえ記憶していようとも、日常生活でその教えが実行・実践されていなかったとしたら、その教典を学んだ人にとって、いったい何のための教えだったのでしょうか?

イエス・キリストは何のために自らの命を賭してまでも、あれほどまでにわたしたちに「愛」を説いたのでしょうか?また釈迦牟尼仏陀は、後世の僧侶の教学のために、人間完成のための透徹した真理を説かれたのでしょうか?

けっしてそうではなかったはずです。当時の、そしてその後二千年にわたる世界のひとたちを見据えて、私たち皆が幸せになるために、それを日々実行する教えをイエスも仏陀も説かれたのだと、私は信じています。だから学んだ教えを生活の場でできるだけ実践するように心掛けていきました。

こうして私の真理の探究は、この「真理はひとつである」と「真理は日々の実践の中にある」という2つをキーワードにして始まりました。

学びにおいては、仏教は「般若心経」から始まり「法句教」や「維摩経」などの経典から次第に「法華三部経」、通称「法華経」へ。そしてこの仏典の学びと同時に、キリスト教は「新約聖書」から読み進めていきました。また実践においては、教会の日曜ミサや聖書研究会、禅寺での座禅会、そしてこれからお話しするお寺の小僧となっての生活となりました。

二千数百年前に仏陀がインドで説いた説法、そのすべてが書かれているという仏典「大蔵経」を全部読み尽くしたい程の気持ちでしたが、孫悟空で有名な高僧三蔵法師やインド語の仏典の中国語への翻訳で有名な鳩魔羅什(クマラジュウ)、さらには天台大師智覬。本邦においては、聖徳太子や天台宗の最澄そして日蓮といった、仏教史における巨人たちが、数ある仏典の中でも法華経がその真髄であると語っていることを知り、まずは法華経をしっかりと学ぼうと決意しました。

さて、次回は、法華経を実践で学ぼうとして、ある日蓮宗のお寺に飛び込み小僧となるお話です。お寺の小僧と医学部生の2重生活の始まりとなります。

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