2008.07.14    

第13話  仏陀の教え 「正しさ」そして「原因と結果」について その1

 

今回から仏陀の教えを表した法華経と、イエス・キリストの新約聖書、これら2つの経典から私が学んだことについてお話をしたいと思います。「2つの経典を貫く真理を学びたい!」、というひとりの探求者としてのお話です。

「新約聖書」については、たとえ一度も手にとって読まれたことがなくても、「神の子としてのイエス・キリストが説いた愛の教え」、というイメージを持っている方は多いと思います。しかし、「法華経」と聞いたときに、「仏陀が説いたお経のひとつ」、ということはイメージできても、いったいそこに何が書かれてあるのかをご存知の方は、少ないと思います。

そもそも「お経」と聞くと、「お葬式のときにお坊さんが読んでいる、まったく訳のわからない漢字だらけの、何となくご利益がありそうなもの」、といったイメージかと思います。

しかし、お経はけっしてお葬式のときに使うだけのものではありません。私たちが幸せになるための教えが満載された、人間尊重・人間完成、そして人類平和を説いたものです。様々なことで混沌としている現代においてこそ、時代に即した言葉で息吹を吹き返して広く伝えていくべきであると私は思っています。

そういうわけで、初めに私が法華経から学び得た教えについてお話いたします。

仏陀は悟りを開いてから入滅するまでの約50年間、その真理を多くの場で多くの人々に語り続けました。そのそれぞれの説法を後世の弟子たちがまとめたものが、「法句経」や「維摩経」、「阿含経」、「涅槃経」、「般若経」であったり、「阿弥陀経」や「華厳経」であったりします。だからどの経典も仏陀が説かれた内容のもので、本来優劣の差はなく、どの経典も尊いわけです。

今、ここであの大きな体をしたゾウを誰かに説明しようとします。ゾウを一度も見たこともない幼稚園児に対して説明するときと、実際にゾウを何度もみている大人に対して説明するときでは、ゾウに対する説明の内容は当然異なります。

まさにこのことが、仏陀が様々なひとたちに真理の説法をするときにも起こるわけです。その対象となったひとたちの悟りの程度やその場の状況に合わせて、仏陀は真理の表現の仕方や喩え方などを変えました。これが様々な仏典となったのです。どのように説明しようともゾウはゾウであるごとく、当然真理そのものはなんら変わることはありません。

そんなたくさんの仏典の中にあって、「法華経」は、仏陀ご自身が経典の中で「わたしの教えの真髄である」とおっしゃたように、仏陀一代のすべての教えの根本的な精神がはじめてはっきりと発表され、統一されて述べられている経典なのです。だからまさに「法華経」は数ある仏典の中でも代表的な仏典と言えます。

仏陀は、この法華経の中で「四諦・八正道」、「六波羅蜜多」、「空」と「無」、そして「因果の理法」などなど、多くの真理を説きました。これらの言葉を聞いただけで、「もうまったく理解し難い、自分とは関係のない哲学の世界でしょう」、とおもってしまう方もいるかもしれませんが、仏陀は実にわかりやすく、順序だてて、人の世の苦しみから私たちを救い出し、こころやすらかな境地に導く教えを説いてくれています。

例えば「四諦:したい」とは、4つの真理、すなわち「苦:く」、「集:じゅう」、「滅:めつ」、「道:どう」を言います。「苦」とは、文字通り「人生の苦しみ」です。今悩み苦しんでいる人を救うために、仏陀は、人の苦しみから話を始めます。

困難な状況に対処するときに、「四苦八苦する」という言葉を、私たちは日常でもよく使います。この言葉はまさに、仏陀の教えから来ています。すなわち人生には「生・老・病・死」という四つの苦しみがあり、さらに「求不得苦:ぐふとっく」という、求めても得られることのできない苦しみ。「愛別離苦:あいべつりく」という、愛する人と別れる苦しみ。反対に「怨憎会苦:おんぞうえく」という、恨み嫌う人と会わなくてはならない苦しみ。そして「五蘊盛苦:ごうんじょうく」とう肉体という身体の欲求を抑えきれない苦しみ。確かに、私たちの人生に起こる苦しみは、この8つの苦しみのどれかに入ります。この仏陀の指摘は、誰もがものすごく実感できるものではないでしょうか。

その苦しみを認めた上で、次に仏陀はその苦しみには必ず原因があり、それをはっきりとさせる「集」が必要であると説きます。さらに、苦しみの原因を突き止めたら、次にそれを解決し、苦しみを消そうと決意する、意図する「滅」が必要であるとし、最後にそのための方法として8つの方法である「八正道:はっしょうどう」を説きます。このように仏陀は非常に論理的な展開で説法していきます。

今の苦しみから脱する道である、八正道には、正しく見る「正見」、正しく考える「正思」、正しく話す「正語」、正しく仕事をする「正業」、正しく生活する「正命」、正しい向上のための努力をする「正精進」、正しく念ずること、正しい志をもって人生を生きる「正念」そして正しく反省し、ただしく祈る「正定」があります。

ここで、「では、いったい『正しい』とは何か?」とう疑問が湧きます。私は、『正しい』とは、「自分と周りの人たちの魂が向上する道」、と考えています。言い換えれば自分と皆がほんとうにしあわせになる道。道である以上絶え間なく追求していくものと考えます。それはまた同時に神や仏に至る道であり、正しさの追究は、真理探究そのものだと思います。

そして正しさの実践は、毎日の社会人としての日常生活の中で行われなければなりません。ひとり山奥の誰もいない森の中で、「悟った」、と感じていても、そのことにいったいどれほどの意味があるでしょうか?確かに、悟った、と感じている自分はすごく満足かもしれませんが、せっかくこの世に生まれてきたのですから、玉石混交の魂が共存するこの世でその真理を実践することで、初めて真理が自分の血肉になり、本物になると思うのです。

仏陀の説いた悟りへの道、言い換えれば、人としてのほんとうにしあわせになる道は、この正しさの追究と実践により得られるものと考えます。正しい「思い」と「行為」という「原因」があれば、その「結果」として、人生にしあわせな花が咲きます。それは一粒のりんごの種という「原因」が土に蒔かれたならば、次第に成長して大きな木となり、ついには真っ赤なりんごの実という「結果」となる。自然界のこの法則は、私たちの人生においてもまったく同様に働いているのです。

これがまさに仏陀の説かれた「因果の理法」です。この真理は、目に見える自然界の法則として働いているだけでなく、目に見えないこころの法則としても私たち人生に厳然と働いているのです。この世のすべて、そして宇宙全体やあの世である霊界においても、そのすべては原因と結果の連鎖によって成り立っているということです。

次回は、仏陀の説いたこの「因果の理法」についてさらにお話を進めたいと思います。正しいことを思い、日々実践していくことが正しい結果を生む、すなわちほんとうのしあわせになる道であるというお話です。

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