2006/12/04   

第7話 四魂から人の異なる世界を掴む

 

人を見極めるには、先に述べたような四つの魂のどれが強いのかを見ることが出発点です。各々にはそれぞれの価値観があり、大切にしていることがあり、また弱点も見えます。そうしたことを知れば、人と相対していても、かなりの部分が理解できるのです。

 

ときに自分とまったく異なる感性や価値観に基づいた行動も、あんがいスンナリと理解できるようになります。今まで「あの人は何て思いやりがないのか」

「どうしてあんなに感情的なのか」「なぜ行動しないのか」「あんなにそそっかしい行動ばかりして」などと批判していた行動も、こうした「世界観」に基づいていたのか、と理解できるようになるのです。

 

相手が理解できるようになれば、欠点と思っていたことも、その人なりの価値観から出てきたものだと理解することもできます。また、自分の欠点もわかるようになりますし、相手から見た自分というものが見えるようになるものです。

 

このような基本的な4つの世界を掴んだら、次には、さらに深く、私たちのココロの世界を覗き、8枚の四魂の窓を使って、私たちのココロを解き明かしていきましょう。

 

内なるココロに現れる知られざるもの

 

 この章では、人間の真実というか、ココロの奥底を覗くことになります。あなたは、このようなことを書く私に幻滅を覚えるかもしれないし、憎くなるかもしれません。それでも本当に、すばらしい人間関係を築くためには、どうしても人間のココロの真実を描かなければならないと思います。ココロの中に起こっている真実を見ることを避けて、うわべだけではココロの探求はできないからです。

 

あなたは、毎日、人や人がする行動に対して、

ココロの中で何と言っていますか?

 

 これは、あなたにとって衝撃的な質問になるかもしれません。

 

 それぞれの四魂には、しばしば人には知られないように、ココロの中で「密かに」言っている言葉があります。それは通常は聞かれたくない言葉であり、人に言うことを抑えています。それがどうにもならなくなって、言葉として表面に出てくることもあるのです。

 

勇ベースの人

まず、私の心の中で起こっていることを白日の下に晒しましょう。

しばしば、あるときは一日に何度も、心の中に出てくる言葉があります。それは、「くそ!」「このやろう!」「邪魔するな!」「潰してしまえ」なのです。なんという汚いことばでしょう。私は、人と話をしていて、相手にしばしば自分がやろうとしていることを、邪魔されていると感じたときに、このような言葉が密かに出てきます。

 

 したがって、かなり直線的な行動になりがちであり、「誰もついてこないかもしれない」という不安や、「孤独だ」という言葉が、心の中に出てきます。

 

 あまりにも勇が嵩じると、人が回りに寄ってこないので、勇を親で隠すようになります。一見ものごしも柔らかで、何でも言うことを聴いてくれそうですが、近寄ってみると話は聞かないし自分の意見を押し通します。したがって、仕事や人間関係のパワーは当然弱くなります。

 

 もし「勇を親で隠す」のではなく、自分の中の勇を認め受け入れ、「勇を親で表現できる」ようになると、大きなリーダーとなることができます。目的を実現するために、周りの人たちに役割を与え、その人たちを通して前進できるようになれば、これはすごいことになります。

 

 

愛ベースの人

 また、私は、とても優しくいつもはにかんでいる愛ベースの看護師に、同じ質問をしてみました。じっと一点を見つめるようにしばし沈黙がありました。なかなか言わなかったのですが、ついに「許せない。死んでしまえ」と言ったのです。そして「だから私は、なるべくそのような言葉が心に出ないように、一生懸命抑えています」というのです。

 

 ある愛ベースのTVディレクターは、「私は死ねとは言わない。それは最も言ってはいけない言葉だとこれまでずーと思ってきた」といいました。他の言葉ではなく「死ね」という言葉が、最も言ってはいけないものだったのです。

 

私は次々に、愛ベースの人たちに聴いていきました。「人でなし」「消えろ」「勝手にしろ」「この世に必要なし」というバリエーションもありましたが、それは、ほぼ同じ意味でした。

 

自分の感情や思いやりを理解してくれない人に対して、「人間として許せない」「同じ空気を吸いたくない」とまで思ってしまうのです。そして、自分の持つものすごい感情のエネルギーを持て余し、その感情に苦しんでいるのです。

 

また、愛の聴き方は人の言葉に傷つきやすいのです。それは相手の意図している感情より、はるかに強い感情に聴こえてしまうからなのです。上司に仕事上のことで叱られた部下は、次のように言いました。「あの人は、私に対して『お前なんか必要ない』とまで言ったのです。いくら私が仕事でミスをしたからといって、私の存在や人格まで否定するのは、許せません。この心の傷は一生消えません!」これは、愛の聴き方がマイナスに働いた場合の言葉なのです。

 

 そうなると、人は愛を智で隠そうとするようになり、智を発達させていく場合があります。感情を表現してはいけない。傷がつくことを怖れるようになります。そこで、智性を前面に出し、クールさを装うようになります。

 

 しかし、愛がベースであることに変わりはなく、自分の持っているパワーを表現できなくて、力を出せない人たちがたくさんいます。

 

 「愛を智で隠す」のではなく、「愛を智で表現する」ようになると、大きなリーダーになります。「この子どもをなんとかしたい」と愛だけで行動すると、直線的にずけずけと相手に入っていき、うっとおしがられたり、迷惑だといわれることになります。

 

愛を智で表現するとは、直線的に行動するのではなく、子どもを育てるために、何をするべきなのかを冷静に考え工夫できるようになるのです。地球を救いたいと、CO2削減装置を発明するというのも愛を智で表現するといえます。

これは、至難の技であり、あとでお話しする「離見の見」という方法で、自分を観察し修正を積み重ねていくしかないのです。

 

智ベースの人

 私の友人は、クールな感じのとてもきれいな人で、理知的でまるで大和ナデ

シコのように「凛」とした女性です。私は、一日何度も心の中に起きてくる言

葉は何かを聴きました。彼女は、一瞬、躊躇しましたが、すぐ「チッ!わかっ

てない」「バカ!」とクールに言ったのでした。

 

そんなことは絶対言わないはずの人の言葉に、「えー、そんなこと思ってるの!」 私は、最初、とても衝撃を受けました。それは想像してもみない言葉であり、ある意味あってはならないことだったからです。

 

次に、他の智ベースの人に聴いてみると、「ボクはそんなことは言いません

よ」というのです。「え、ほんとう?実際に言うのではなく、ココロの中で、だよ」というと、彼は「あ、それなら一日に何回も言っています。でも、いくらなんでも口には出しませんよ」

 

 よく考えないで話す人や、説明なしで指示をするような勇ベースの人に対して、「押し付けられた」というような気持ちになり、しばしばそのような言葉がでてくるのです。

 

 

 

親ベースの人

 私は、親ベースの人にも同じ質問を聞いてみました。でも自分の意見を言わ

ないのが特徴の人たちで、なかなか答えられなかったのです。「これを知ることが実はすばらしい人件関係を創り皆が平和になるのだから、そのために協力してほしい」と説明することで、ついにその言葉を捉えることに成功しました。

 

 それは、「ふざけんじゃないよ」「何やってんだよ」「いい加減にしろよ」だったのです。その場の雰囲気を壊したり、場に波風をたてるような、つまり場をわきまえない行動をとる人たちを見ると、そのような言葉が心の中に出てくるのです。

 

 親ベースの人は、実は「成功」という言葉も琴線には触れません。歯車が回っていれば安心であり、自分が果たす役割でグループがうまくいけばよいと考えています。

 

 したがって、自分がその場に役割を果たせないとわかると、自ら身を引く場合もあます。2人の子どもを一人で育てている女性は、保険会社で顧客係をしていました。顧客のために役に立つセミナーを定期的に催していました。その人は、直属の部長の、「保険の直接の顧客だけではなく、お年寄りの人たちも呼ぼう」という方針を、とてもうれしく思っていました。

 

 ところが、上司が変わり、今度の部長は、保険の対象ではない顧客は呼ばないという方針を打ち出しました。自分がこれまで造ってきた「場」が維持できないということがわかり、生活に困るにもかかわらず、自分はもう居られないと悩むのです。

 

 私はこれらの内なる秘密の言葉を徹底的に調査してみました。それはとても衝撃的なことでした。まとめてみるとこのようになりました。

 

1.勇ー くそ!このやろう!邪魔するな!

2.愛ー 許せない!死ね!地獄に落ちろ!

3.智ー チッ!わかってない! バカ!

4.親ー えー!何やってんの!場をわきまえろ!ふざけんじゃないよ!

 

私は、これまで人から「このやろう」「ふざけんじゃないよ」「頭悪い!」

「許せない」という内的な言葉を浴びて、生活していたのです。だがこれは、私だけではないのです。皆がお互いに「くそ!」「消えろ!」「頭悪い!」「何やってんの!」と言っていたのです。

 

これらの聴こえない言葉のシャワーの中で、私たちは生きてきたということになります。 

 

さらに、私たちの多くは、このような言葉がココロに出てくるのは認めたくないかもしれません。また、このような言葉が、出てくることに悩んでいる人もたくさんいます。特に、愛の聴き方の強い人は、感情の強さを持て余し、その感情の強さに翻弄されているのです。

 

 私は、この事実を知ったとき、「これを受け入れなければ、表面をお茶で濁すような人間の理解しかできない。白日の下に晒し、そこから出発しなければならない」と思ったのです。なぜこのような言葉を発するのかを究明しなければなりません。これを扱うことなく、ココロを知ることや、もちろん人間関係を良くすることは不可能だと直感的に思いました。

 

皆こんなことを思っているのでしょうか。どんな美しい人も、どんなに明るい人も、どんなに優しい人も、どんなに愛情深く見える人も。人間は、こんなに醜い存在なのでしょうか。

 

面白くなってきましたね。

 

次回は、なぜこのような言葉が出てくるのか、その源泉を共に探りましょう。

 

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