2013.10.14    

第3章 菌は悪魔か

結核の場合、咳や微熱、具合いの悪さ、体重減少などの症状が出るのは、体が正常ではなくなったからではなく、機能が弱ったからでもない。むしろ、きちんと正常に機能しているからこそ起こる体の反応だ。菌の侵入を防ぐため、そして菌が侵入しやすい環境を、菌が侵入しない環境に戻すために、体がわざと起こしている反応だ。症状が出るということは、体の機能は正常で、健全であることの証だ、とルドルフ•シュタイナーは論じている。

病気の症状と言ったら、その症状自体が悪いことだと思われがちで、症状を抑えようとするのが普通だろう。たとえば風邪をひいたとき,薬を飲んで咳を止めるとか、熱を冷ます、といった処置を施すだろう。でももし、その症状が体の正常な反応だとしたら、それらを抑えることは、体の正常な反応を邪魔することになりかねない。へたをすると、風邪を長引かせるか、こじらせることにつながるかもしれない。

頭や喉の痛み、具合の悪さは不快なので、抑えたくなるのは分かる。しかし、不快なのは体を休めろという指示だと思って、体は正常に対処しているのだから、薬で邪魔をすることは止めて、少々不快なのは我慢して静かに布団で休むのが一番だ、と私はつい言ってしまいそうになる。でもそう言ったら、それは医学の知識のないやつのたわごとだ、と言い返されそうだ。

結核の場合に問題なのは、上半身が下半身をコントロールできなくなっていることで、これが菌の侵入を誘発している、とシュタイナーは説明している。これには、ほとんどの医師が猛烈に反発するだろう。結核はこの菌こそが原因だ。この菌は結核菌と呼ばれている。結核菌が発見される前は多くの人が結核で亡くなった。菌が発見されて、菌の予防接種をするようになったら、結核にかかる人が激減した。かかっても、薬で菌を退治すれば、かなりの人は治るようになった。だから結核で亡くなる人は、今ではあまり見かけなくなったではないか(<補足>、一時よりはずいぶん減ったが、日本ではまだ、結核にかかる人が年間2万人くらいいるそうだ)。これは医学の、薬学の勝利だ、と多くの人は主張するだろう。

では、結核がはやったとき、結核にかかった人と、かからなかった人の差は何だろう。菌が唯一の原因だったら、菌のあるところにいたら、全員が結核にかかるはずだ。それとも、体がもともと丈夫な人がかからず、体の弱い人がかかったのだろうか。もともと丈夫な人は、菌が入ってきても即刻、退治してしまったのだろうか。

これに対しシュタイナーは、上半身と下半身のアンバランス(バランスが欠けていること)が菌の侵入を招く主な原因だ。結核が多くの人に伝染するように見えるのは、多くの人にこのアンバランスが生じているからだ、と述べている。だから、菌を体から追い出す咳を少しでも多くし、特別な食事療法を使ってでも体のだるさを誘発する。さらにアンバランスを修復するために体が体重の減少を引き起こすから、うまくバランスを取り戻して体が回復してきたら今度は別の食事療法で体に栄養を与える、というのがシュタイナーの結核の処方箋だ。

シュタイナーの論法をもう少し引き延ばして、この予防接種や薬が結核を治すためにどう働くかを考えてみよう。

まず、予防接種はまだ結核菌に侵入されたことのない体に、害のない程度の量の結核菌を前もって与え、抗体が菌に対して即座に反応できるように訓練しておくものだ。いざ菌が入ってきたときに、すぐに抗体が菌を発見できれば、抗体に誘導される体の免疫システムが直ちに菌を退治できる。こうして菌を完全に退治しているかぎり、体が菌に害されることはないから、その間にアンバランスが解消されれば、菌の侵入を招く原因は取り除かれる。

また、薬で菌を殺しておいて、体にアンバランス回復のための十分な時間を与えれば、菌が侵入しない環境に戻る。予防接種でも薬を使っても、時間を稼いでる間に、体重の減少によって下半身の活動が鈍らないとバランスは回復しない。上半身が下半身をうまくコントロールする、というのがバランスのとれた状態で、体重減少というのは、非常に重要な体の反応だ。だから、やせるのはまずいと言って体重を増やそうとするのは大きな間違いだ、ということになる。

健全で正常な体が起こす症状に任せるにせよ、予防接種や薬などの方法を使うにせよ、結核を退けられるかどうかは、菌を侵入間際で撃退し続けるのと、バランスを取り戻すのと、どちらが長くかかるかの時間の勝負となる。例えばもし、人工的に培養した菌を大量に与え続けたら、いくら症状を出しても、予防接種で鍛えておいても薬を使っても、菌の撃退には限界があり、いずれは菌にやられてしまうだろう。

以上のように考えると、体に起きる症状は必ずしも悪いことではない。むしろ必要なことだ。それなら、侵入して来る菌は悪者なのだろうか。菌のよく知られている役割は、有機体を分解することだ。人間や動物の体、植物などの有機体は死んで活動が止まったら、菌によって分解される。もし分解されなかったら、この世界は死体の、枯れた植物の山となっていただろう。土に埋めても分解されなかったらそのまま残って、土の養分にもならない。火で燃やし尽くして灰にして、土に帰す方法があるかもしれないけれど、養分となるには灰がミネラルになるまで分解されなくてはならず、やはり菌が必要だ。

創造する、創作することは素晴らしいことだ。しかし次から次へと創造を続けるためには、前の創作物がいつまでも残っていては、いつかは邪魔になるだろう。創造物を分解することも必要だ。動物の死体ばかりを食べるハイエナや、死体を分解する菌は非常に重要な役割を果たしている。死が近づいてきたとき、あるいは死んだとき、ハイエナやハゲタカだけでなく、様々な菌が寄って来る。寄って来なかったら、有機体は分解されず、それこそ大変だ。

医学会の重要な発見物の一つと言われる結核菌も含めて、菌は空気中にも水中にもそこいら中に、億、兆、それ以上の単位で徘徊している。だから、我々は全員、例外なくごく大量の様々な菌にさらされているわけだ。これで、例えば結核になる人とならない人の差が出るのは、いったいどういうわけだろう。

菌の本来の役割から言えば、分解が必要なところが活躍の場だから、ある意味、ハゲタカのように死のにおいを嗅ぎ付けて、やって来るわけだ。それなら、菌を呼び寄せる上半身と下半身のアンバランスは、体が死に向かって突き進んでいるから起こる、ということなのだろうか。

そして、死に向かっているから菌がやって来るとしたら、菌が原因で結核にかかり、それがもとで死亡する、という筋書きは成り立たない。それとは逆で、死という現象、あるいはその兆候が体に現れたために、それにおびき寄せられて菌が侵入した。菌がもとで結核になり、死を招いたわけでなく、菌は死という現象を手助けした、あるいは後押ししたにすぎない、ということにならないだろうか。菌が死の原因でなく、死という現象におびき寄せられてくるのだとしたら、死のもともとの原因とは一体何なのだろうか。

 

 

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