2013.10.28    

第4章 死ぬことの意味

死が先か、それとも菌が先か。体に死の兆候が現れたために菌がやって来たのか。それとも、菌が侵入して体を蝕んだために死が訪れたのか。これと同じ疑問は、ガンや心臓病など、菌とは無関係に見える他の病気にも当てはまるだろうか、ガンの原因は微生物である、という説もある。体が死に向かい始めたためにガンになったのか。それとも、ガンになり、腫瘍が無軌道に成長し続け、体を圧迫したために死が訪れたのか。

この疑問を、もっと拡張したら無謀だろうか。死ぬことになったために、飛行機事故に巻き込まれたのか。それとも、飛行機事故はやはり偶然で、それによって死亡してしまったのか。

結核の場合、体に死の兆候が現れたために、それに応じて菌がやって来たのだとすると、それでも症状が出ているとしたら、体は死に向かっているときでさえ、健全に正常に機能する、ということになる。ともかく、死の原因は病気なのか、それとも死が病気のもとかを検討する前に、死は何なのか、ということを考えてみよう。

死という文字を見たら、どうしてもいい感じはしない。だいたいの人は、死んだら自分はおしまいだ、と思っているだろう。だから死は怖い。死というのは、本当にそのように悪いことなのだろうか。

この死んだらおしまい、というのと全く対照的なのが、死後の世界がある、という考え方だ。では、いわゆる病気の症状が出ることは体が健全であることを物語っている、と言うルドルフ•シュタイナーの死に関する説明を紹介しよう。20世紀を代表すると思われる天才哲学者のシュタイナーがユニークなのは、いわゆるサイキック五感を持っていたことだ。彼は、我々の通常の五感では見えない物が見え、感じられない物が感じられた。自分自身で、時にはサイキック五感を持つ人たちを集めてチームを作り、教育や医学、農業など、いろいろな分野のことを10年以上もかけて研究した。そしてその成果を広めるために、ドイツを中心にたくさんの場所で毎日のように講演して回った。

シュタイナー、またはそのチームによると、人間は肉体以外に、3つの体を持っている。それらを、エーテル体、アストラル体、”私”(マインド体、あるいはスピリチュアル体)と名付けている。これらの名前はユダヤ教、キリスト教の流れをくんでいると思われる。日本の神道ではおそらく、それぞれ、復体、幽体、霊体に相当する。

エーテル体は肉体とほぼ同じ形をし、肉体より少し大きくて、かぶさるように肉体を覆っている。肉体と同じ形のスーツをすっぽりと着ているようなものだ。アストラル体はさらに大きく、形はぼーっとしていて肉体、復体にかぶさっている。”私”という体は、それこそ自分の精神的な心の動きにつられて全く同時に動くので、そう名前がつけられた、と思われる。アストラル体よりもさらに大きく、さらに霧のようにぼーっとしている。

死ぬときは、アストラル体と”私”が、肉体とエーテル体を離れる。去られた肉体とエーテル体は活動を停止し、消滅する。前章で述べたように、肉体は菌などによって、ミネラルなどの要素に分解され、土に帰る。肉体と復体を離れたアストラル体と“私”は消滅しないで、いわゆる死後の世界で活動する。そして輪廻によって次に生まれ変わってくるときに、全く新しい肉体、エーテル体、アストラル体、“私”に移行する。つまり、我々は全く消滅してしまうわけではない。我々が死ぬ、と思っているのは、肉体と復体が無くなってしまうことだ。

サイキック五感を身につけていない我々にとって、シュタイナーの話が本当かどうか、確認のしようがない。我々の五感に見えるのは、死んだら肉体の活動は停止し、いずれは消えてなくなる、という現象だ。この現象だけを見たら、死んだら自分は消滅し、それで完全におしまいだ、と思ってしまうだろう。本当のことは、それこそ実際に死んでみないと分からない。実際のことが分からなかったらどうしても、どちらを信じるか、ということになってしまう。信じる信じないというレベルを乗り越えるために、シュタイナーの話にもう少し、物理学的な色合いを添えてみよう。

我々の通常の五感は、ある限られた周波数の波動しか捉えることができない。目で見える光、耳で聞こえる音、鼻で嗅ぐにおい、舌で捉える味、肌などで感じる感覚は、すべては波動だ。これら5つの種類の波動のうち、我々の目、耳、鼻、舌、肌はそれぞれ、限られた範囲の周波数の波動しか捉えることができない。この限られた周波数を超えた波動を捉えることができるのが、いわゆるサイキック五感だ。

シュタイナーによる4つの体のうち、肉体の波動が一番荒い、つまり波が一番大まかだ。周波数は一番低い。エーテル体、アストラル体、”私”と進むにつれ、波は次第に細かく、繊細になり、周波数は高くなっていく。通常の五感は、肉体のレベルの波動、つまり一番大まかな波動しか捉えることができない。サイキック五感は、肉体レベルの波動より細かい波動を捉えることができる。より細かくて繊細な波動を捉えられるようになるにつれて、エーテル体、アストラル体、”私”と捉える範囲が広がる。

我々は普通、意識が肉体にある。そして、通常の五感も肉体レベルの波動しか捉えられない。死ぬと、意識がアストラル体、”私”に移行する。つまり、肉体レベルより全然細かい、繊細なレベルの波動へと意識が移る。この波動の細かい、アストラル体と”私”レベルの波動で構成されているのが、いわゆる死後の世界だ。

アストラル体と”私”が肉体とエーテル体を離れるのは、死んだときだけではない。眠ったときも、この2つの体は肉体とエーテル体を離れている。ただ、眠りが覚めるとき、肉体とエーテル体のところに戻る。そういう意味では、死んでから輪廻で次に生まれてくるまでは、長期間の眠りと言えるかもしれない。

毎日の眠りの間に見る夢は、肉体を離れているときなので、空を飛んだりとか、場面が突然、別な場面に飛ぶなど、肉体レベルでは考えられないことも起きる。ただ眠っているときは意識も眠っているので、2つの体が肉体とエーテル体から離れていることは分からない。

この眠りのときに、意識が眠らないで覚めたまま、アストラル体と”自分”についていくと、自分が肉体を離れて、飛んでいくのが分かる。これが”幽体離脱”(英語では、アストラル•プロジェクション、Astral Projection)と呼ばれるものだ。文字通り、神道用語では幽体が離れることで、キリスト教用語では、幽体に匹敵するアストラル体が離れることだ。“幽体離脱”を経験した、と言う人に話を聞くと、離れるときに、横たわっている自分の肉体がはっきり見え、いろいろなところを自由に飛んでいけるそうだ。

幽霊は神道用語を使えば、死んで肉体、復体を離れた幽体と霊体が、死んだことに気づかず、地上の近くをさまよっている状態だ。サイキック五感を持つ人は、この幽霊を見ることができるかもしれない。

ともかく、死んだら意識は肉体を離れ、もっと細かくて繊細な、通常の五感では捉えられない範囲の波動の世界に移行する。そして、いずれはこの肉体レベルの波動の世界に生まれ変わって戻ってくる。生まれ変わって来るとき、前世までの記憶は、あらかた消えてしまう。これが本当なら、我々は決して、消えてしまわない。ある意味、生命はずっと生き続けていて、死ぬことはない。

この話のように自分の生命が永遠に続いて、本当は消滅しない、つまり死なないのだとしたら、人生が1回きりのときとは人生観や価値観が根本的に変わるに違いない。死なないということは、殺すことも不可能だ。自殺も含めて、殺すということがある種の幻想である、とうことにすべての人が目覚めたら、自殺、殺人などはなくなるかもしれない。死に体する恐怖、自分が消え去ると考えることによる空しさもなくなるかもしれない。

死ぬと見えることが、実は肉体レベルの波動を離れて、別な波動に移行することだとしたら、意識はその標準を、もっと繊細な波動に合わせなくてはならなくなる。生長の家の創始者、谷口雅春は、意識が新しい波動のレベルに標準を変えることを楽器に例えて、死後の世界に進むときの弦の調整だ、と説明している。弦をもっと繊細な響きに合わせるこの大調整は通常、波動の移行をする前、つまり死ぬ前から始まる。もちろん、この大調整は肉体にとって、死の予告みたいなものだ。このことが本当なら、それを嗅ぎ付けて、解体役の菌がやって来てもおかしくはないだろう。では、ガンや心臓病にかかりやすくなるのも、この大調整が始まってからなのだろうか。

 

 

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