2014.02.03   

第11章 病気はない

宍喰村の言い伝えによると、次々と病人を治していた弘法大師(空海)は、「即身成仏、人のこの身はこのまま仏だ。仏の金剛身に病などあるはずがない」と言った。即身成仏とは、仏教の祖、釈迦牟尼仏陀(しゃかむにぶっだ)が説いたもので、我々は誰でもいずれ仏陀になる、つまり我々一人一人は本来は仏陀である、ということだ。そして大師は、その仏の本体には病気はありえない、と言ったわけだ。

私の師、哲学者の木村玄空によると、日本語の神(かみ)の語源は輝く身(かがやくみ)、あるいは隠れ身(かくれみ)。そして木村玄空は、本当の我々、我々一人一人の本来の姿を、本物の自分(Authentic Self)と呼んでいる。

本物の自分は輝く身、つまり光のように輝いている。光に例えると、本物の自分は光源である。そして、光の当たるところを見ている。と言うより通常は、光が当たるところしか見えない。自分の光が捉えるのは、つまり光が当たるところに見えるのは、この肉体だ。サイキック五感を持つ人の光はさらに、復体(エーテル体)、幽体(アストラル体)を見ることができる。

このことは、見るものに限らず、聞くもの、感じるものなど、いわゆる五感が捉えるものは全部同じだ。我々一人一人が光だとしたら、我々の光が捉えることができる物体、音、味、におい、肌で感じる感覚はすべて、光が到達する先にある。また、考えや感情なども、我々が捉えているのはすべて光が到達する先にある。

では、我々の光は、光源である本物の自分を捉えているだろうか。目は、鏡でも使わない限り、目そのものを見ることはできないのと同じように、自分の光は通常、光源である本物の自分を捉えることはできない。光は、光の先を捉えているが、光の元は捉えていない。自分は、自分の光の先にあるものは捉えているが、光の元の本物の自分は捉えていない。だから、本物の自分は隠れている、つまり隠れ身である。

この光のたとえは非常に単純だと思うが、これ以上のたとえはなかなか見つからない。一言で言えば、我々は本物の自分を捉えていない、ということだ。では、本物の自分を捉えることはできるのだろうか。光の元で輝いている本物の自分を、仏教で言う仏を、神道で言う神を捉える方法はあるのだろうか。

このために、洋の東西を問わず、共通する方法が瞑想だ。回向返照(えこうへんしょう)と言って、光に例えると、光源を出た光が折り返して光源に戻ってくる。これによって光源である本物の自分を捉えるのが瞑想のひとつの大きな目的だ。そして、本物の自分を完全に捉えるのが、悟り(英語ではEnlightenment)の境地だ。悟り(さとり)の語源は木村玄空によると、差を取る。見ている自分と見られている自分の差がなくなる。光と、光の先で光が捉える現象の間には差があるが、光が光源を捉えたら、つまり光が光自体を捉えたら、差が取れる。

即身成仏は、生きてこの肉体を持ったまま、つまりこの世にいる間に、自分は仏、すなわち本物の自分であることを掴むことだ、とだいたいは解説されているようだ。生きている間に仏であることを悟るため、瞑想の様々な手法が開発されている。禅では座禅が有名だが、仏教の宗派によっては荒行もする。生きている間に自分が仏であることを悟るのは、そう簡単ではなさそうだ。

本物の自分を主体としたら、肉体、考え、感情などは、光の先で主体が捉える対象、つまり客体だ。本物の自分である主体を知らないで、客体として見えるもの、捉えられるものを本物の自分だと思い込むことを、スピリチュアリティーの世界では主客転倒と呼んでいる。

スピリチュアリティーの立場から見ると、この主客転倒があらゆる悲劇を生み出している。客体である肉体、すなわち我々の光が捉える肉体は、誕生して、いずれは消え去る。これだけを見ると、明らかに生があって、死がある。谷口雅春やルドルフ•シュタイナーが言うように、いわゆる死後の世界があるとしたら、我々の意識は肉体レベルの波動から、もっときめの細かいレベルの波動にチューンアップして、幽体(アストラル体)、霊体(”私”あるいはマインド体)の世界に照準を合わせる。そして、この世に戻るときは幽体、霊体を抜け、波動の照準は再び肉体レベルとなり、新しい肉体を伴って誕生する。復体(エーテル体)も新しく誕生し、幽体、霊体も一新される。

この肉体、復体、幽体、霊体が誕生と消滅を繰り返すとしたら、それをずっと見守っているのが本物の自分だ。光の先で繰り広げられる生死、あるいは老化と呼ばれる肉体の移り変わりを、光の元で観察し続けているのが本物の自分だ。肉体レベルの波動に照準が合った“この世”、幽体、あるいは霊体のレベルに照準の合った”あの世”といったサイクルが光の先で繰り返されるのに対し、光の元でこうした現象を観察している本物の自分はそのまま消えないで、ずっと続いている。光の先で起きる現象には限りがあり、時々刻々と変化するのに対し、光の元の本物の自分は永久に続き、無限だ。

光の先には誕生や死があるのに対し、光の元の本物の自分はずっと絶えることがない。つまり、本物の自分には誕生も死もない。本物の自分が真実で、光の先はそう見える現象だとしたら、本当は、死はない。真実に、死はありえない。

本当は死がないとしたら、死ぬというのは、そう見えるだけで本当はそうでない、つまり幻想だ。死なないとしたら、殺すというのもない。死がないとしたら、殺すのは不可能だ。生命は不滅で、殺すのは不可能だと分かったら、どうなるだろう。殺すというのは全くの無意味だから、意識的に人を殺すことはなくなるだろうか。または、殺しても死なないのだから、殺すことに対する罪の意識は全く消えて、平気で人殺し、つまり肉体を抹殺する行為をするようになるだろうか。

ゴッホやモネの絵画、バッハやモーツアルトの音楽の美に触れたとき、それを破壊しようという気が起こるだろうか。大自然の美を思い切り体験し、その尊さに触れたとき、それを破壊しようと思うだろうか。子供は特にそうだが、自分が大切にしているものは後生大事に守るはずだ。

光の先に見える肉体の大元が、光り輝く本物の自分であることを知ったとき、それこそが生命の根源で、それは光り輝く美そのものだと分かったとき、それを破壊しようという気が起こるだろうか。自分も他人も、誰もが大元は光り輝く美であり、愛おしく尊いものだと分かったとき、それらを破壊する気になるだろうか。それらをいっぺんに破壊する戦争をする気になるだろうか。そもそも、光の元を破壊することは全くの不可能だ。その全くの不可能をわざわざしようとする気になるだろうか。

病気も、光の先で見える現象を、我々が病気だと解釈したにすぎないかもしれない。弘法大師が指摘したのは、仏の金剛身、つまり本物の自分には病などあるはずがない、ということだ。光の元にある真実ばかりを見据えて話していた弘法大使は、光の先に起こる現象しか見ていない一般の人には全く難解で、何を言っているのかさっぱり理解してもらえなかったようだ。

光輝く本物の自分は、哲学的に言うとホール(Whole、<補足11-1>)であり、完璧で完全だ。完璧で完全だから、常に完璧なバランスが取れている。病気とか不健康とか、バランスが崩れるような状態は起こらない。ヘルス(Health、健康)という英語の言葉は、このホール(Whole)から派生している。光の先では肉体や精神がバランスを崩しているように見えても、ホールである光の元の本物の自分は完璧なバランスが取れている。本物の自分に病気、不健康はありえない。

完璧で完全な光の元に対して、光の先で起きている現象は常に不均衡が生じている。完璧なバランスの均衡状態では、動き、あるいは運動は全く生じない。動きがあるのは、不均衡があるからだ。そして、物体や現象は常に動いている。静止物といっても、止まっているように見えるだけで、実際は動いている。

量子物理学によると、我々が観察、観測できる全ての物質、現象は波動だ。我々の五感も、あらゆる観測機械も捉えているのは全て波動であり、波動しか捉えることはできない。我々は様々な波動を同時に、あるいは時々刻々と捉えて、それを物体とか、現象とか言っているわけだ。波動は常に動いている。止まっている波動は存在しない(止まっていたら、それは波動ではない)。もし止まるとしても、止まっている波動は観測できない。静止物と言っても、それは波動で構成されている。構成要素の波動が動いているのだから、その静止物も動いているということだ。波動は常に動いているのだから、不均衡は常に生じていることになる。

哲学者のウォルター•ラッセルによると、宇宙全体では常に均衡が保たれている。動きが起こると同時に、それを打ち消す動きが起こる。波動が生じると、同時にその波動を打ち消す波動が生じる、ということだ。そうやって不均衡は常に打ち消され、宇宙全体では均衡が保たれている。我々は、起こった動きと、それを打ち消す動きのうち、片方の動きしか観察していない。もし、この二つを同時に観察できたら、均衡が保たれている宇宙が理解できるかもしれない(<補足11-2>)。

ある一連の動きを病気と呼ぶならば、これらの動きのひとつひとつは、いずれは打ち消される、つまり消えるわけだ。また、一連の打ち消す動きを症状と呼ぶならば、病気の症状と言うより、均衡を取り戻す運動、と呼んだ方が正確だ。均衡を取り戻すのを促すのに薬や療法を使うのは分かるが、均衡を取り戻すのをかき乱す薬や療法は使わない方がいい、ということになる。

これらの動き、これらの波動に自分はどれだけの影響を与えているだろう。これらの動き、これらの波動に、自分の考え方、自分の言葉、自分の行動がどれだけの影響を与えているだろう。

我々一人一人のの肉体は、10兆個以上という、ものすごい数の細胞で構成されている。そして、ひとつひとつの細胞はものすごく早いペースで細胞分裂をし、新しい細胞を生み出している。新しい細胞が次々と生み出されるのと同時に、古い細胞は次々と死に絶えている。つまり、今ある細胞は、どんどん新しい細胞に置き換わっている。

例えば腸の内壁は、4日間で全ての細胞が置き換わると言われている。我々の肉体の表面を覆っている皮膚は、6週間で全ての細胞が置き換わると言われている。腸の内壁をすべて押し広げたら相当な面積になると思うが、そこに今ある何億という数の細胞は、4日後にはひとつも残っていなくて、すべて新しい細胞に置き換わっている、ということだ。皮膚を構成している何億、何十億という細胞も、6週間後にはひとつも残っていないで、すべて新しい細胞に置き換わっている。

この肉体、そして細胞は波動で構成されている。細胞を構成する波動が、次々と消えて、新しい波動に置き換わるペースは、細胞分裂よりはるかに早いだろう。我々の細胞を構成する波動、つまり我々の肉体を構成する波動は、ものすごく早いペースで新しい波動に置き換わっている、ということだ。

我々の考え、我々が発する言葉、我々の行動も波動として周りに伝わっている。考え方が変化するのに伴って、考え、言葉、行動が変わる。肉体を構成する波動も我々が発生させたものだ、というのは言い過ぎかもしれないが、我々の考え方、それに伴って変化する考え、言動は、我々自身の肉体を構成する波動に大きく影響するはずだ。

自分は不健康だ、と思っていたのが、次の日には、自分は実は健康だったんだ、と認識が根本的に変わったとしよう。前の日までは、自分は不健康だ、という思いに強く影響された波動によって自分の肉体は構成されていた。波動は次々と新しい波動に置き換わるから、次の日には、肉体を構成していた無数の波動のうち、その大部分は(もしかしたらその全部が)、自分は健康だという思いに強く影響を受けている新しい波動に置き換わっているはずだ。

こう考えると、不健康で病気がちだ、という認識が、健康で病気なんか滅多にしない、という考えに置き換わったとたんに肉体の状態が変化することは、ありえないことだ、とは言い切れないだろう。我々の認識や考えは、目の前で起こっている現象に大きく左右される。たまたま小児ぜんそくで、風邪をよく引いて、父親がガンで若死にした、と知ったら、自分は不健康で病気がちなんだ、と誰でもが思い込んでしまうだろう。自分もガンで早死にするかもしれない、と思ってしまうのが普通だろう。

私の場合、自分の病気は仮病のように、自分が作り出していたのではと思ったとたんに、自分は不健康で病気がちだ、という確信に近い思いに疑いが生じた。自分は不健康だ、というのは紛れもない事実だと思っていたのが、その不健康の証である病気は自分が作り出していたのでは、と疑ったとたんに、その”事実”は崩壊してしまった。その結果がどんどんと肉体にも現れ、肉体が不健康では決してない、むしろ健康であることを表現するようになった。こうなると、自分は実は健康だったんだ、と思わざるをえなくなる。

ましてや、本物の自分には病気はない、病気は本当は存在しない、と悟ったら、自分は病気だとか、病気がちだという考えは成り立たない。自分の考えや考え方が波動に大きな影響を与えるとしたら、病気という現象を構成していた波動は、病気はない、と悟ったとたん、全く別の波動に置き換わるかもしれない。

本物の自分を悟り、それこそが真実で、光の先に起こることはそう見えるにすぎない幻影であることを熟知していた空海や谷口雅春の「病気はない」という一言は、ゆるぎも疑いも全くない。光の先の現象で何が起こっても、真実は何の影響も受けない。ガンが増殖している人を目の当たりにしても、空海や谷口雅春の「病気はない」は全くゆるがない。このゆるぎない真実に触れたら、常に移り変わる現象だけを見ている我々のあやふやな信じ込み、信念といったものは消し飛んでしまうしかない。

さらに、人から発する波動、その人が影響する波動によって、その人の周りの空間は大きく影響を受けるだろう。大広間に入って来ただけで、それが相当に広い空間であっても、さっとその広間全体の雰囲気を一変させてしまう人もいる。「病気はない」の一言で病気が治った、というのは言葉だけの力ではないかもしれない。だから、空海や谷口雅春の存在が”この世”から消えてしまったら、光の先で起こっている病気という”気の迷い”を消し去るパワーも失せてしまった。そうなると、いくら谷口雅春の本を読んでも、谷口や空海の教えを伝える人たちの「病気はない」という言葉を聞いても、薬も医療も使わずに病気が治る人は、空海が創設した真言宗の信者の中にも、谷口雅春の生長の家の信者の中にさえ、いなくなってしまった。

(文中敬称略)

<補足11-1>ホール(Whole)は哲学では最も重要な概念。同時に最も説明が困難な概念でもある。これを哲学者でなくとも、哲学の予備知識があまりなくとも、直感的に分かるように説明を試みたのは、例えばChristopher Alexander著「The Nature of Order」(全4巻、The Center for Environmental Structure出版)。

<補足11-2>ラッセル理論は一般になじみがなく、理解が難しいかもしれないが、ウォルター•ラッセルはこの理論によってたくさんの未発見の元素を推定し、本に書いて、当時の科学者100人に送った。その後、その未発見の元素のうち二つが特定され、特定した二人にはそれぞれノーベル賞が授与された。第6章の<補足6-3>参照。

 

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ