2016.03.14    

第18章―12 隠蔽(いんぺい)されたガン治療法の数々 その11

“悟り”を得るために、真面目(まじめ)にやっている宗教のほとんどでは様々な修行をするわけですが、その代表が瞑想(めいそう)だと思われます。その瞑想には、座禅など様々なやり方があるようで、私の”悟り”が宗教のそれにどれだけ近いか分かりませんが、私の場合、感動することが一種の瞑想なのかもしれません。「和良久(わらく)」の前田比良聖師範はどうやら、武術の修行を積むことによって”悟り”に達した、武術に打ち込むことが瞑想になった、と思われます。

要するに、”悟り”に達する道のりは一人一人違いそうだ、ということです。差がない、切れ目や境がない、この”悟り”のときにある、強烈で、鮮明で、実に確かで、混じり気が全くなく、すべてを満たしていて、全く美しく、私に涙を流させる”これ”は、一体何なのか。

”これ”こそが本当の本物、正真正銘の真実だとしたら、私たちの本当の本質は”これ”かもしれない。私たちの本質は、肉体性、物質性がないどころか、形すらなく、インスピレーションとか、美とか、愛とか呼んだ方がよさそうな”これ”ではないのか。宗教が、多くの人が”神”と呼んでいるものも、本質は”これ”なのだろうか。だとしたら、神の本質を見たり、聞いたり、五感で捉えることはできないわけで、本当の神を体験するのは”悟り”の境地でしかないのか。こうしたことを、私はつらつら考えています。

そして、”これ”が、音の形で見事に現れたのがバッハやベートーベンなどの音楽であり、ビジュアル(画像)で見事に現れたのがゴッホなどの絵画であり、言葉やストーリーで見事に現れたのが宮沢賢治などの文学であり、理論や数式で見事に現れたのがアインシュタインの相対性理論などではないか、という気が私はします。

スポーツを観て感動するのも同じだ、と私は思います。最近、私が感動したのは、ついこの前、日本にいたときにテレビで見た、フィギアスケートの羽生結弦選手の世界最高得点を出した演技でした。完璧とはまさにこの演技のことで、次々と難しい高度な技を決め、一糸の乱れもない。美しいなんてものではなくて、この演技は凄(すさ)まじい。羽生選手の命がかかっている、としか言いようがありませんでした。

「Lifetime devotion for the moment of victory」という表題を最近目にしましたが、この一瞬の勝利のために一生を捧げる、ということです。おそらく羽生選手は、仲間と酒を飲みに行く、コタツにあたってぼーっとテレビを見る、といった私たちが楽しみにしていることには目もくれず、美しい4回転サルコーを一糸乱れず決めるために、ひたすら百回でも千回でも、それこそ一万回でも納得するまでサルコーを飛び続けている、と思われます。練習だけじゃない。食事までも研究し、徹底的に節制していると思います(テニスの世界ナンバーワンが書いた「ジョコビッチの生まれ変わる食事」を読みましたか)。

これこそまさに、一瞬の演技のために、命(一生)を捧げている。世界のトップレベルなんてこんなものかもしれません。努力なんていう、なまやさしいもんじゃない。交響曲第39番、40番、41番の大傑作3連発をたったの6週間で書き上げたなど、下書きなしの天才と呼ばれ、次から次へと曲を書きまくって、書いた楽譜の収集がつかず、未発表の名曲もたくさんあったのではと思われるほどの大天才モーツアルトでも、「自分ほど勉強した人はいない」というようなことを言ったそうです。

モーツアルトの何がすごいかと言えば、その吸収力で、ヨハン・ショーベルト、ヨハン・クリスチャン・バッハ(バッハの末息子)、ヨーゼフ・ハイドンなどの大先輩の音楽を片っ端から瞬く間に吸収して完全にマスターしたうえで、誰もが作れない全く独自の曲を次々と作曲しました。後世の大作曲家、ヨハネス・ブラームスは、「我々はもはやモーツアルトのような曲は作れなくなってしまった」というコメントを残しています。

勉強に時間をかけた、というわけではありません。35歳の若さで亡くなるまで、ピアニストとしても作曲家としても引っ張りだこの大人気でしたから、勉強している時間はそんなにはなかったはずです。でも、普通は何年かかっても習得が困難な音楽を、おそらくモーツアルトは数ヶ月、もしかしたら何週間という短期間で達成してしまった。モーツアルトが言ったのは、勉強して吸収した量も質も、誰にも負けない、という意味だと思います。

もちろん、元々持っている才能も他の人とは全然違うかもしれません。私が他のことを一切しないでフィギュアスケートの練習だけを毎日朝から晩まで何十年もし続けたところで、羽生選手のレベルに行けるわけでは決してありません。でも、持って生まれた才能だけでなく、モーツアルトや羽生選手などの天才がすごいのは、その猛烈な吸収力、集中力です。これだけの吸収力、集中力を出せる情熱こそが、出口光メキキの会代表がおっしゃっている”志”ではないか、と私は思います。

この”志”は、芸術やスポーツで天才と呼ばれる人たちだけのものとは思えません。出口代表が指摘しているように、普通に誰もがやっているようなこと、例えば子育てだって、掃除だって、”志”になりそうです。

子供を育てるとはどういうことでしょうか。ルドルフ・シュタイナーが提唱した教育システムは、彼が書いた哲学の大傑作、「自由の哲学」で考察している、本当の意味での自由な人を育てるのが狙いだった、と私は解釈しています。本当の意味での自由な人とは、本当の自分に忠実に生きている人のことだ、と「自由の哲学」は示唆しているように私には思えます。

私が感動することによって達する”悟り”の体験こそが真実で、この切れ目や境のない、強烈な光で照らされたように鮮明で、慈愛のように怒りや悲しみなどの感情を包み込んでしまう、混じり気がない、全てを満たしているホール(Whole、あるいはWholeness)が自分の本質だとしたら、この本質に忠実に生きるのが、本当の意味での自由だ、ということになりそうです。

子供が大人に育つということは、周りの目を気にしながら、これはしていいことか悪いことかと悩み、社会のルールに反すると罪の意識を感じるか、あるいはそれがカッコイイと映るような、どこか束縛され、どうもみんなが小さくなっているこの世の中で、そんなカッコや体裁、罪の意識などに縛られず、完全で完璧なホールに忠実な、本当の意味での自由な人に成長する。子育て、教育も、突き詰めれば、大天才シュタイナーが示したように非常に奥深い、それこそ志がないと、命がけでないと、とてもできないことかもしれません。

掃除や片づけだって本当の目的は、完全で完璧なホールを作り出すことだ、とは言えないでしょうか。世界遺産に指定されている京都の龍安寺にある石庭は、基本的には、白沙を敷き詰めた庭に、大小15個の石が置かれているだけです。白沙が敷き詰めてある庭だけだったら、特に何もない。15個の石がただ転がっているだけでも、別に何でもない。ところが、石が庭に置かれると、配置によっては、全体が美しく輝き出す。配置によっては、その輝きは神々(こうごう)しくもなる。

この神々しい輝きこそが、ホールではないか。これを表現する言葉がうまく見つからず、”神々しさ”という言葉を一応持ってきましたが、私がこの”神々しさ”を一番感じるのは例えば、バッハの音楽です。石の配置によっては、より美しいホールになる(と言うより私には、よりホールなホールになる、と言った方がしっくりきます)。ここに掃除、片づけの真髄がないだろうか、と私は考えています。

こう見てくると、音楽や絵画、建築、そしてスポーツ、子育てや掃除、片づけなど、すべて志があると、つまり命をかけると、完全で完璧で、美しく神的で、私たちを感動させるホールが表現される、と言えないでしょうか。

おもしろいのは、よりホールであるほど、ベートーベンの音楽はよりベートーベンらしくなり、ゴッホの絵画はよりゴッホらしくなる、ということです。元のホールはただ一つの、誰にとっても同じものに感じられるけれども、それが表現されると、表現する人の個性が現れる。しかも、人の真似できないものを作ろうなどと意気込んだりすると、その自我がホールを台無しにしてしまい、個性どころか、見事な作品はできない。むしろ、自分(自我)を捨て、誰にとっても同じものに思えるホールに忠実であるほど、ホールが完璧に(よりホールに)表現されるほど見事で、より個性的になるようだ、ということです。

そして、Health(健康)の元の言葉がWhole(ホール)であるなら、肉体の健康とは、完全で完璧なホールが肉体に表現される。私たちの本来の姿であるホールが、肉体で現れる。五感では捉えられないホールが、五感が捉える肉体に現れる。

生きている、ということは、生命が表現されているわけですから、それこそ命がかかっている。命をかければかけるほど、より生きてくる。命をかけている人は、つまり志がある人は、それだけ生きてくる。それだけ、ホールが現れる。それだけ、健康である、とは言えないでしょうか。
(続く)

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ