2016.04.28    

第18章―14 隠蔽(いんぺい)されたガン治療法の数々 その13

「寺子屋」塾は、自分の生い立ちと先祖の歴史から、自分が親や先祖から受け継いできたことを紹介することから始まるけれども、私のこの連載は唯一の例外だ、と鈴木富司大番頭からご指摘を受けました。そこで今回は、本来の第一回目になります。

私の父は、私が1歳3か月のときに他界しました。胃ガンと診断され、入院してから、あっという間に亡くなったそうです。30歳という若さで、母はそのとき29歳。お腹に私の妹を身ごもっていて、妹が生まれたのはその1か月後です。父の死は、私の家族にとっては決定的に大きなことであり、これが妹と私の人生のスタートだった、と言えるかもしれません。

私の父も母も長野県佐久市の出身で、父は東京駅に勤務していました。当時、国鉄(今のJR)は国有の巨大企業で、それに入社したのはエリート(おそらく国家公務員のキャリア組)、と私の叔父と叔母(父の兄弟姉妹)は言います。父はとても頭が良かった、とも叔父、叔母は口を揃え、おそらく学校の成績は優秀だった、と思われます。そして、体は痩せ気味で、お酒が大変好きで、毎日のように相当飲んでいたようです。

そして、父は兄弟をとても大事にして、妹、弟の面倒をよく見ていたと思われます。生まれてすぐに亡くなった兄弟は別にすると、父は8人兄弟の3番目で、上に兄と姉が1人ずついました。でもその兄は”唯我独尊”で自分の好きなことばかりに走りがちで、姉は体が弱く、父が実質、長男の役割を果たしていたようです。

これらと、叔父、叔母(父の弟、妹)の証言をもとに、私が思いつく父の人物像は、エリートを少々鼻にかけ、”ええ格好しい”だったけれど、親切で思いやりがあり、社交的だった、ということです。私が思い描けるのは、せいぜいこの程度でした。

私が物心ついたときにはすでにこの世を去り、私の記憶に全くない父のことを、これ以上知りようもなく、少なくとも15年前までは、私にとって父はまるで実体のない架空の人物のようであり、私には父の実感というものがまるでありませんでした。

ところが15年ほど前、叔母(父の妹)が私に、父の形見のひとつをくれました。それは、大学ノートに書き込んだ父の病床日誌であり、父の遺稿とも言えるものでした。その最初のページをめくると、三輪車の横に立つ、おそらくまだ歩き始めたばかりの私の写真がど真ん中に貼られ、その真下にこう書かれていました。

「最愛の日出夫」

その瞬間です。まるで父が思いっきり実体を持って私の前に現れたようでした。それ以来、無限大だった父との距離はなくなり、父をほとんどいつも身近に感じるようになりました。と言うより、それ以前もずっと父は私と一緒にいたんだ、としか私には思えません。父は、ずっと生きていました。

さて、母に移る前に、誰を尊敬しているかと聞かれて私にまず浮かぶのは、母の両親である私の祖父母です。母は父が亡くなった後、しばらくの間、祖父母のところに身を寄せていましたので、私は小さいころ、祖父母と一緒に暮らしました。”明治の気骨”を地で行ったのが、明治生まれの祖父母だった、と私は思っています。

祖母はとにかく、不平や不満、人の評価を一切、口にしたことがない、おそらく顔にも態度にさえも表さなかった人だったようです。祖父が先妻を亡くし、盛況だった工務店のビジネスも火事で一気に失ったところに嫁いできて、それこそどん底だった祖父を助け、苦しい家計をやりくりしながら6人の子供を育てあげました。

その忍耐の強さは、最後の最後まで続きました。祖父が脳溢血(のういっけつ)で入院した後に、祖母が倒れて病院に担ぎ込まれました。腎臓がんで肝臓などに移転し、もう手遅れだ、と言われたそうです。相当苦しかったと思いますが、誰もそれに気づきませんでした。そしてそのまま、祖父の後を追うように、亡くなりました。

祖父は、父をなくした私を、強い子に育てなくてはならないと思い、私には非常に厳しかったようです。祖父にこっぴどく叱られた私を、祖母が庇(かば)って、慰めてくれたのを、なんとなく覚えています。

先日、日本のテレビ番組で、仕事には非常に厳しかった”経営の神様”、松下幸之助は、仕事のことで部下を厳しく叱った後、必ず自分で部下の奥さんに電話して、今日はしょげて帰るはずだから、晩酌でもつけて慰めてほしいと頼んでいた、というエピソードを紹介していました。

”神様”から怒られたら相当しょげると思いますが、それだけではない愛情があった幸之助は、部下からはとても慕われていたようです。この、飴(あめ)とムチと言うより、愛とムチを幼い私は、祖父と祖母から受けていました。

もうひとつ、祖母のことで私が覚えているのは、ほとんど毎日のように、近所の駄菓子屋でキャラメルなどのお菓子を買ってもらっていた、ということです。家計を相当切り詰めていたと思われるのに、自分の欲しいものも買わず、私に駄菓子を買い続けてくれたわけです。

私にとって、祖母が優しさの原体験であり、私はいまだに、この包まれるような優しさを求めているところがあります。

祖父は若いころ、相当羽振りが良かったようです。ところが、愛妻を亡くし、火事でビジネスを失い、そして戦争となり、戦地から怪我をして帰ってきた次男(長男は幼ないころ亡くなっているので、実質は長男)もそのまま若くして亡くなりました。そのためか、これといったビジネスはやらずに質素な生活をする一方、戦前には有数の宗教団体だった大本の熱心な信者となりました。

私は、怒っている人が非常に苦手です。私自身が短気ですぐカッとなるくせに、怒っている人とは一緒にいられません。これは幼ないころ、よく祖父に怒られたためだと思われます。祖父以外に、私をそんなに怒った人はいません。

そんな祖父が、私が10歳になる前、脳溢血(のういっけつ)で倒れ、病院に担ぎ込まれました。半身不随で、しゃべることもできなくなりました。退院して、温泉のある保養地の施設に移り、そこに母に連れられ、妹と見舞いに行きました。

私が部屋のドアを開けて、中に入ったときです。私の方を向いた祖父の目から涙があふれ出ました。それを見た瞬間に私は全てを理解しました。祖父は私を愛していた。

子供だから、理屈は分かりません。でもそれ以来、あんなに怖かったはずの祖父の怒った顔が、私にはどうしても浮かびません。それどころか、実際に怒られたこと、怖かったということすら、どうもはっきりとは思い出せません。思い出すたびに、祖母と一緒に、にこやかなに微笑む祖父の顔ばかり浮かびます。

祖父の葬式の時、焼香にやってくる人があまりにも多くて、行列が外の道路にもあふれ出し、私の母は通りかかる人に、市長でも亡くなったんですか、と尋ねられたそうです。”愛の人”だった祖父は、多くの人から慕われ、尊敬されていたようです。

残念なことに、祖父と祖母の人格は、私の人格にはほとんど全く反映されていませんが、祖父と祖母のおかげで、立派な人というのを明確にイメージできます。

さて、いよいよ母ですが、私が生涯をこれまで接してきて、私の性格、特徴など様々なことに決定的で重大な影響を及ぼしたのは、母です。


(続く)


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