2016.06.22    

第18章―16 隠蔽(いんぺい)されたガン治療法の数々 その15

親が子供にどれだけの影響を与えているかは、どんなに大げさに言っても、言い過ぎることはないかもしれません。先日85歳で亡くなった私の母が、息子の私に及ぼした影響を考えれば考えるほど、それは決定的です。

その母が、自己評価の低さに加えて、若くして亡くなった夫(私の父)を投影させて私の健康を心配するあまり、幼い私によくささやき、つぶやいた言葉が呪文のように働いて、体がひ弱で気も弱く、劣等感がやたら強くて自信のない、事あるごとに自分はダメだ、と思ってしまう子に私は育ってしまいました。

このハンディを乗り越えられるかがある意味、私の人生の大きな課題となるわけですが、三つ子の魂百までも、というように、あと数年で60歳の還暦を迎える私に、いまだに影響し続けています。

日本では「バカ」という言葉をよく耳にしますが、生長の家を創設した谷口雅春は、親が子供に「バカ」と決して言ってはならないし、口に出さないだけでなく、思ってさえもいけない、と戒めています。

親の「バカ」の一言が、子供に、特に幼い子供にどれだけ効くか。学校の成績が悪いと言って嘆く親は、もしかしたら、その子が幼いころに、自分の不注意な「バカ」の一言が相当効いたかもしれません。その一言で、モーツアルト級の天才が潰(つぶ)されなければいいのだけれど、と私は非常に気になります(ちなみに私は、母だけでなく、祖父にも祖母にも、叔父にも叔母にも、「バカ」と言われたことは一度もありません)。

優秀でない子なんて一人もいない、と私は思っています。でも、才能というのは非常に多岐にわたっているもので、優秀である分野は、一人ひとり全く違いそうです。どの子にも、優秀で才能に恵まれていて、それを発揮すればみんなをびっくりさせる分野が必ずあります。そもそも、親がその子の能力を信じてあげないで、誰が信じてあげられるか。その子が非常に優秀だと思っていたら、「バカ」なんていう言葉は、そう簡単には出てきません。

小学校から大学までの学校で教わることが、知性や能力全体の一体どれだけをカバーしているか。学校の成績だけで、非常に広い分野にわたっている才能を測ることができるのか。テストの成績や入試で進学する学校が決まって、多くの子の将来の方向がかなり決定づけられる、というシステムは、外れてしまった私には、すごく特殊な収容所(Asylum)のように見えて仕方ありません。

そのこと以外にもいろいろあって、母からの”遺伝”で心配性の私は、日本の将来(というより、すでに現在)がとても心配です。

その心配性で自己評価が非常に低かった私の母は、ティーンネージャーだった終戦のころ、近くの国鉄(今のJR)の駅で男手不足だったため、手伝いに行かされました。しばらくすると、そこの国鉄の診療所でも人手が足りず、そちらに回されました。そこで働くうちに、診療所なんだから看護師の資格を取っておいたほうがいい、と上司の方に言われ、看護学校に出してもらい、資格を取って正式に看護師になりました。

人々の「天命」、「天職」を探求し、そうした人々のネットワークを作ってよい世の中にすることが”天命”である出口光メキキの会代表がよくおっしゃる”天職”に、これ以上当てはまるものはないだろう、と私が考えているのが、私の母の看護師です。

「私はブスで平凡でつまらない女だ」が口癖の母は、クソまじめだけが取り柄だと思い込んでいて、人に頼まれたことは、とにかく一生懸命やる。自己評価が低いためか、偉そうなことは決して言わないばかりか、意地の悪さといった邪気も全くないので、頼みごとをすぐに引き受けてしまうお人好しです。

さらに、神経質で、極度の清潔好き。アメリカの私のところに来るたびに、到着した途端に掃除を始め、その初日に寝る寸前まで掃除をし続けている。時差ぼけで疲れているはずなのに、ちょっとでも埃(ほこり)が残っていると、寝ることもできない。

そのうえ、おせっかいやきで世話好き。それもただの世話好きではなく、人にどう見られるかをいつも気にしているため、人の気持ちの変化には非常に敏感ですから、悲しさや寂しさといった方向に相手の気持ちが傾くのは、すぐに気がつく。

さらに、自分に自信がないためだと思うのですが、対人恐怖症の気(け)があり、他人と一緒にいるときの沈黙に耐えられないせいか、喋り出すとずっと喋っている。それは、息子の私からしたら、うるさいだけのただの迷惑なのですが、病気の不安を抱えながら病室で孤独に耐えている人にしてみたら、母のおしゃべりで、とことんまで話に付き合ってくれるのに、どれだけ救われるか。

意地悪なところは全然なく、偉そうな態度は全くとらない。頼まれごとは快く引き受けて、一生懸命にやる。世話好きで、病室にいる人の悲しさや寂しさに気が向き、寂しい人のおしゃべりにとことん付き合う。そして、清潔にしていないと気が収まらない。

まさにこういう人を、白衣の天使と呼ぶのでしょうが、その白衣の天使に救われた人が何人いたか。

“愛の人”だった母の父(私の祖父)の葬儀には、何人もの人が訪れて焼香の大行列ができ、近くをたまたま通った人が、市長さんか誰かが亡くなったのですか、と母に尋ねたそうですが、母の葬儀を一般に知らせたら、同じように大行列になっていたかもしれません。

白衣の天使は、多くの人を救うと同時に、家族も救いました。夫が亡くなって、すぐに看護師に復帰した母は、お金に困ったことはない、と思います。女手一つで、看護師をやりながら二人の子供を育て上げ、大学にまで出したわけですから、それは生易しいことではなかったはずですが、常に人手不足と思われる看護業務は、一家3人を財政的に支えるのに、十分な収入をもたらしたようです。これだけ人に尽くした人が、経済的に恵まれないわけはないかもしれません。

それなのに母は、決して贅沢はしなかったうえに、無趣味で、どこかに行きたいか、何を食べたいか、と尋ねても、「なんでもいい」と言うばかりで、まともな答えがなかなか返ってきませんでした。でも、母の天職を考えると、母が趣味を持っていなかったのは、とてもよく分かる気がします。

谷口雅春によれば、私たちの魂には5つの希求、つまり魂が本気で求めているものが5つあります(<補足1>を是非、参照してください)。一番強い希求は、進化すること(日常の言葉では、成長すること)。あとの4つは、愛すること、愛されること、尽くすこと(奉仕すること)、認められること、だそうです。このどれか、あるいはいくつかが満たされると、魂の底からの喜びがあるわけです。

母の看護師は少なくとも、尽くすこと、それによって認められること(心から感謝される)の、2つの魂の希求を十分に満たしていたと思います。さらに、看護師の仕事を通して成長したとしたら、母の天職は、最も強い希求まで満たしたかもしれません。

私はどちらかと言うと趣味の人間であり、音楽を聴くこと、絵を見ることがとにかく大好きで、ドラマも好きだし、味にはうるさく、科学や哲学にも大変興味があるので、趣味の時間が全然足りません。ですから、趣味は素晴らしいし、趣味にだけ没頭する人生もいいな、と思っているくらいです。

でも、天職を懸命に果たすことによってもたらされる魂の底からの喜びを知っている私の母にしてみたら、楽しむ程度の趣味には興味をそそられず、魂の底からの喜びを味わえるものに出くわさない限り、あまりやる気にはならなかっただろう、と私には思えます。

こういう人が天職を終えてしまうと、ちょっと悲しいことになりそうです。母は、65歳で看護師を引退してからも、姉(私の叔母)が歩行困難になったり、娘(私の妹)の嫁ぎ先のお父さんが腎臓透析になったりなど、しばらくは看護師に代わる活躍の場がありました。また、息子の私がいろいろとトラブルを起こし、孫(私の息子)の面倒を見るためなどで度々アメリカにも来ていました。

ところがここ数年、特に最大のトラブルメーカーがトラブルを起こさなくなり、母の活躍の場が急激に減りました。母は、自分の役割は終わった、と思ったのではないか。私にはそう思えてなりません。

私は、老齢化社会の最大の問題のひとつはこの点にあるのではないか、と考えています。仕事でも趣味でも子育てでも孫育てでもなんでも、とにかく打ち込むことがあった人に、年をとったからといって楽ばかりをさせようという発想は、すごく見当違いな気がして仕方がありません。

こういう人たちの魂は、安易な趣味に時間をかけて、美味しいものを食べて海外旅行でもして余生を過ごそうなんて、望んでいるでしょうか。私が母に、亡くなるしばらく前、もし体が元気になって若返ったら、また看護師をやりたいかと尋ねたら、はっきりと「やりたい」と答えました。

いろいろと考えさせられました。看護師はもう無理にしても、孤独で寂しい思いをしているお年寄りなどの、話し相手にはなってあげられるのでは、とか。体力は衰えたにしても、人の役に立てることが何かあるのではないか。どんな形にせよ、死ぬまで現役が、死ぬまで何かに打ち込むことができるのが一番いい、と私は思います。

マイケル・ジャクソン、プリンス、スティーブ・ジョブズ、そして多くの人の末期ガンを治した医師のニコラス・ゴンザレス。私に年齢が非常に近い人たちが、ここ何年かで次々と、50代の若さで亡くなりました。早くに亡くなっていいことはないかもしれませんが、彼らは亡くなるまで現役真っ盛りだった。

母は、旅行にはほとんど興味がなかったと思いますが、ペルーのマチュピチュだけには行ってみたい、と言っていました。だから私は、母とマチュピチュに行きたかった。私はスペイン移住を夢見ていますが、母とスペインで暮らしてみたかった。とても残念でなりません。

私を最も愛してくれた人が、この世からいなくなってしまいました。

<補足1>
魂の5つの希求は、私の師匠である木村玄空(げんくう)が、谷口雅春の著書から読み取ったものです。私も、300冊は書いたと言われる谷口雅春の著書のうち、20冊近くを読みましたが、魂の希求は全く読み取れませんでした。5つのうち、最も強い希求が成長する(進化する)ことであり、魂が成長する場を作ろうとして、それを「生長の家」と名付けたようです。

世界中の歴史的な偉人を徹底的に研究し、その人たちが残した著書を師としている木村玄空によると、谷口雅春は間違いなく、20世紀の日本を代表する大天才だそうです。私が読んだ20冊近くは、どれも凄(すご)いと言えますが、特に物凄い感銘を受けたのは、

「生命の實相(じっそう)、頭注版(全40巻)の第1巻」(全20巻の愛蔵版もあるので注意)
「生命の實相第2巻」
「生命の實相第8巻」
「無門関解釈」(同タイトルで、著者が別な人のもあるので、注意してください)

です。出版社は全て、日本教文社だと思います。是非、お読みになってみてください。

なお、この連載のタイトル「病気はない」は、谷口雅春が何度も繰り返すこの言葉を、そのままお借りしたものです。


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