2008/01/21
第19話「引退の時」
今の時期、プロのスポーツ選手が引退を決意し、第一線から身をひいてゆきます。戦力外通告を受けた人もいれば、自ら限界を感じて身を引いてゆく人もいるでしょう。
何人もの選手が、今の気持ちは言葉にならない、という有り様で、引退宣言をして、去ってゆきます。
現役を引退するということは、選手にとって命をとられたのと同じくらい、辛いことです。その後、いくらおしえ方のうまいコーチになっても、現役時代に選手としての実力を発揮し、その舞台でピークを向かえ、故障に負けずに自分に挑戦し結果をだしてゆくというのが、スポーツ選手なら誰でも考える王道だと思うのです。その舞台から降りるべき時期が来たとき、選手は自分の歩いてきた道をどう振り返るのでしょう。
選手生命として考えたら、その期間は短いものです。でも、もっと大きな人生の舞台として考えたら、生命の終わりが来たとき、あなたはどのように自分の人生を振り返りますか?
<印象に残る選手>
私は学生の頃、新体操をやっていました。決して強くないチームでしたが、新体操に対する情熱だけはどのクラブよりも負けないと思っていました。全日本で活躍する選手の中に、引退するときの引き際が今でも忘れられない選手がいました。
その選手は日本ではナンバーワンで、オリンピックでは8位入賞が個人の成績では最高でした。私は日本の新体操界を代表する、夢のある選手と考えていて、熱心に応援していました。
オリンピックイヤーでないとしても、たいてい世界選手権などで華々しい結果を残して引退宣言をする選手が多いなか、彼女は大会などの時期がないときに、引退をしました。大々的に発表するわけでもなく、必要な報告だけを済ませ、引退してゆきました。
彼女にとっては大会で優勝することが、選手としての自分の在り方であったのでしょうか。体力の限界まで、自分に挑戦することが選手生命そのものだったでしょうか。自分の演技のイメージを少しでも質の落とすものになり下がってしまうと感じたら、身を引くべきだと考えていたのかも知れません。あるいは、もっと他に誰も知らない理由があったのかも、それは本人でなければ分かりません。
ただ、一つ予測するのは、志しながらこの世を去っていった戦国時代のサムライのように、彼女の選手生命もまた、新体操に志している途中に「引退」という一線を越えた、という感覚なのかも知れません。
引退にむけて選手としてピークを向かえるのではなく、新体操を通して、彼女の志を全うしている間に引退してしまった、と私は想像しています。
<終わりのない挑戦へ>
体力には限界があり、いつか滅びるときが来ます。でも志には定年もなければ限界もありません。人生を通してのライフワークであり、深く知れば知るほど、自分しか行ったことのない世界を知ることができるのではないかと思います。
体力はカタチとなって目にみえるものです。でも志は、カタチを変えることができます。もし、新体操を通して、世の中の頑張っている人に励ましのエールを送りたい。という志をもったひとが選手として活躍したあと、がんばっいる後輩のために選手を励まし、その選手をとおして世の中の多くの人を励ます、というように、立場は違えど、自分の志を表現することができるのです。
どんな人に、どんなことをしたいか。
そこがブレなければ、一生志しつづけられるのです。
どんなにやりたいことがあっても、体力がなければ出来ません。ただ、その体力を突き動かすのは、気力ではないかと思います。その気力の原動力となるのは、他でもない、志だと思います。
人は志がなくても生きていけると思います。でも、自分の中に過去を振り返ったり、未来を予測したり、現在を再確認しながら志し続ける人生と比べたら、一貫性のない、いきあたりばったりの人生になってしまうような気がします。
どんな選手になりたいか。
子供のころ、野球選手に憧れたとき、選手のどこに魅力を感じたのでしょうか。同じように、どんな人になりたいか。そこにあなたの志のヒントがつまっているように思います。
「魅せるための筋肉ではない、使える肉体が欲しい。」とか「身体は本来、必要なものはすでにあるのだから、不自然にデコレーションすることもない。」という人もいらっしゃいます。同じように、志すその人生に必要な健康とは何かを考えて頂けたら、必然と自分に自然な生活というのがわかってくると思うのです。
志のためのリッチエイジングというのは、本来そこが基本となり、気力と体力を兼ね備えた豊かな人生を応援するエクササイズでありたいと思います。
長い間、ご愛読ありがとうございました。
第20話は、今までの文章をまとめて、終わりのご挨拶と変えさせて頂きたいと思います。
続く