2007/02/19   
2008.09.01   

10話 光と闇

 

私たちの心には「光」と「闇」、あるいは「善」と「悪」の両方が存在しています。それは、現実の人間社会に善と悪の世界が存在するのと同様です。

 

スピリチュアルな世界も同じです。「神の光」を取り入れてどんどん魂の機能を活性化させて魂を磨いていきたいところですが、当然その魂の向上を阻止しようとする「闇」も存在するのです。

 

「闇」は、現実の人間社会と同じように、自分たちの影響力を大きくし、勢力を拡大するために、「光」の世界の拡大を阻止しようとします。「闇」の目的は、私たちを「神の光」から離し、一緒に闇を大きくする仲間にすることです。当然、「神の光」を取り入れて魂が活性化していくのを指を加えて見ているはずはありません。自分たちの勢力を強めるため、魂の向上を何としてでも阻止し、自分たちの仲間にしようと動くのです。

 

スピリチュアルな世界では「闇」のことを、多くの場合サタンとか悪霊などと表現します。ネガティブな想念が積もり積もると、魂を覆って「光」を消してしまうサタンとなったり、前回ご紹介した動物霊などの低級霊や得たいの知れないエネルギーなども、「神の光」から私たちを離そうとする「闇」の勢力拡大のための悪霊と言えます。つまり、サタンや悪霊と言っても、すぐにそれとはわからないようにいろいろな形に姿を変えて私たちのところにやってきているのです。

 

 

魔が差す

 

私たちは、実はいつも闇から「つけいる隙がないか」と狙われています。ある程度魂がしっかり神の光と繋がるようになれば安心かというと、全くそんなことはないのです。魂を磨くようになればなるほど、闇にとっては自分たちの勢力拡大を邪魔するものとなるため、わずかな気の緩みや油断を突いて入り込んできます。

 

わずかな隙を突いて魔が差し込んでくるのを実感したのは、自分自身の魂を掃除してもらうためにせっせとセラピーに通っていた頃のことです。セラピーを受けると、魂を覆っていた想いが取れてクリアになるので、心も体もとても軽くなります。その日は通常のセラピーの何倍もの浄化効果があるというセミナーに参加した翌日でしたので、身も心も軽く、気分良く散歩をしてました。

 

母から携帯に電話が入りました。当時母はすでにセラピーを始めていて、いつも自分の魂の状態だけでなく、私の魂の状態もチェックしてくれていたのです。

 

「佳穂ちゃん、魂が覆われているわよ!しっかり魂を掃除しておきなさい」

 

魂が覆われることは良くあることです。魂の掃除をサボるとすぐ自分の想いや人の想いで覆われてしまいますから。でも、その日は、前日にセミナーに参加していたので、かなり浄化されて魂は綺麗だったはずなのです!そんなことあるはずない!と頭にきてしまい、「ありがとう」と言うどころか、「知らないわよ!」と怒って電話を切ってしまいました。

 

頭に来ながらも、魂がどんな状態なのか意識を合わせると、確かに覆われてしまって光がどこにあるのか分からなくなっています。「あ〜あ」、落胆と怒りが入り混じった気分になり、さっきまでの心地よさはすっかり吹き飛んでしまいました。

 

冷静に振り返ってみると、「おかしい」と指摘されて「ありがとう」と言えずに、怒って電話を切ってしまったことこそ、魂が覆われている証拠でした。

 

がっかりしながらも、何故こんなにすぐに覆われてしまったのか思い起こしてみると、どうやら「綺麗になっているはず」「私は大丈夫」という自分への過信が傲慢を呼び、そこに低級霊がすっと入り込んできたようです。

 

「魔が差す」という言葉は本当のことだったんだ、魔って本当にわずかな隙をついて差し込んでくるんだなぁと感心しました。

 

それ以来、一瞬一瞬、自分に魔が差していないかチェックする必要があるのだと認識が変わりました。魔はわずかな隙を突いて差し込んでくるため、いつでも魔が差し込むことがあると考え、その前提で、毎日自分の心と魂に愛と光を入れて、掃除をする必要があるのだと気づいたのです。

 

魂に従っているつもりでも、肝心の魂が覆われてしまっていたら、結果的には全く違うものに従ってしまうことになるのです。「自分は大丈夫」と過信せず、祈りながら、魂の覆いが取れるように意識して、愛と光を魂に入れるようにしてみてください。「愛しているよ」と心を込めて自分の心に伝え、心や魂を覆った想念が溶けていくと、魂に神の光が入るようになります。

 

 

「闇」の存在と神

 

スピリチュアルな世界で「闇」の存在を語るとき、神(この宇宙を創った創造主)はどうして「闇」を創ったのか、或いは、どうして闇の存在を許しているのか、という話がよく出てきます。

 

神は、神から背を向けて遠ざかってしまった私たち人間が、また「神の光」に向かって歩み出して神の元に帰ることを望んでいると言われています。

 

それならば、何故神は、私たちが神の元に帰ることを邪魔する「闇」が活動することを許すのか、というのです。

 

「闇」は確かに私たちの「神の光」への歩みを邪魔するものです。でも、私たちが「闇」の勢力に取り込まれてしまうのは、もともと私たちの中にある「闇」が似たような波動のものを呼び寄せるから取り込まれるのだとも言えるのです。では、闇に取り込まれたらそこでお終いなのかと言うとそうではありません。

 

私たちは、そこで一時的には引き寄せた闇に覆われてしまいますが、魂の叫びとも言える内なる強い思いに動かされて、更に成長する可能性を与えられるのです。

 

「神の光」から遠ざかってしまう人は数多くいます。それでも、その「闇」の勢力から「神の光」へ立ち返り、成長を遂げる人もいるのです。さらに、「闇」であるサタンや悪霊自身も、私たち人間とのやり取りをきっかけにして「神の光」へ帰ることがあるのです。こうやって、神の光へ立ち返る人や霊を増やし、「光」を広げていくことこそ、私たち人間に与えられた役割・使命と言えるのではないでしょうか。

 

神は、これらのことを全て承知の上で、「闇」が活動することを許していると私は思っています。

 

ただ、そうは言っても「闇」の目的は「神の光」から遠ざけることです。そのために、私たちの一瞬の隙を付いて、時には巧妙に、時には強烈に攻撃を仕掛け、実際にそのまま「神の光」を求めることから離れた状況にひたってしまう人も多々いるのです。「闇」からの攻撃を避けるに越したことはないのです。

 

 

次回は、魔が差し込むときのわかりやすい見分け方とその対処法をもう少し詳しく見ていきましょう。

 

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