2006/12/11   

第7話 能の世界の人々

「もしもし、私修学旅行で能を見たT高校のY子と言いますが、、」という一本の電話が始まりでした。話を聞くと「能楽おもしろ講座」で能を見て能楽師になりたいというのです。「生まれて初めて能を見たのですが、びびっときたんです。高校をやめて、そちらに行きたいんです。」ということ。それからメールや電話のやりとりが続き、ご両親には話していないこと等もわかり、とにかく高校は卒業することを約束したのですが「能楽師ってどんなことするか知ってる?」と聞くとイメージだけで実態はほとんど知らないとのことでした。皆さんは、能楽師と聞いてどんなイメージが浮かびますか?

 

能楽師とひとくくりに言いますが、能の世界は専業制になっていますので、シテ方 ワキ方 囃子方 狂言方と分かれています。このことは私たちの世界では当たり前と思って何の疑問も感じたことがなかったのですが、ご質問で「ワキ役の人は主人公もやるのですね?」と言われた時はっとしました。人気が出るに連れてワキ役の方が主役をやるということはテレビやお芝居の世界ではよくありますが、能の世界では絶対あり得ないことなのです。シテ方は一生シテ方。ワキ方は一生ワキ方なのです。囃子でも笛方は笛だけ。狂言の人がシテ方をしたり、狂言もやるということはないのです。まずは主役を演じるシテ方からお話してみます。

 

 

シテ方と言いますが古くは「仕手」「為手」と書いたようです。つまり仕る手ということですね。どういう役をやるかと言えばその物語の主人公、いわばヒーロー、ヒロインです。  そして最も重要なのはシテがこの曲のプロデュースをすると言ってもいいということです。

キャスティング、衣装の選択、演出家も兼任しています。面の選び方ひとつとっても、例えば「羽衣」という曲の場合、小面を使うのと増を使うのでは全くイメージが変わります。小面ではかわいらしさを、増という面はちょっと冷ややかなイメージや高貴さを持っていますので天人の中の神性を強調します。という風に、シテがその曲をどういう風に演じたいかで、すべてが変わります。それは装束の選択でもそうです。「半蔀」(はじとみ)のヒロインである夕顔を演ずる場合、長絹を白にすれば夕顔の白のイメージを増幅しますし、紫にすれば高貴な感じが強くなります。

 

 シテ方はツレもします。ツレは副主人公的な役のときもあれば、単にシテのお供という役割のときもあります。よく男の方が「俺のツレが、、」と言いますが多分ここからきたのではないでしょうか。このツレというのは、そう目立たないのですが、実はよいツレというのはとても大切なのです。シテを盛り上げ、目立たず目立ちすぎず、かといって埋没せず、シテを引き立てる役と言ってもいいと思います。ツレの上手な方というのは舞台の上だけでなく日常生活でも、心配りの出来る方が多いというのは納得できるような気がします。これは他の仕事でも同じでしょう。有能な秘書はきっと社外でも素晴らしい人だと思います。

 

シテ方は他に地謡、後見をしますし、子供の時分は子方という子供の役もします。地謡というのは、バックコーラスにあたると思っていただいたらいいと思うのですが、この地謡の出来不出来がシテの演技、当日の舞台を大きく作用します。いい地謡に出会うと、シテは地謡に舞わせて貰ったような気がするといいます。能には指揮者がいませんが、当日のシテは総合プロデューサー、地頭が地謡の指揮者にあたります。地謡は通常8人から10人が多いのですが皆一斉に謡いだしているように聞こえますが、実は地頭が最初の息を出すまでは、誰も謡っていないのです。微妙な息を皆、耳ではなく全身で聞いているのです。扇子も地頭が置くまでは誰も置きません。後ろを見ずとも気配で察するのです。

 

後見は舞台のお客様から見て左手奥の後見座に座っています。いわゆるプロンプターと思っている方がありますが少し違います。一見とても地味で何もしないように見えますが 舞台上で何か不測の事態が起こった場合は後見がこれにあたるという重要な役で誰でも出来るという訳ではないのです。例えば、紐が切れて太刀が落ちたときとか、天冠がずれたのを直したりとか、もしシテの気分が悪くなり倒れた場合、代わりに舞うということもしなければならないのです。その日の装束をつけるのも後見が多いですし、舞台で物着というシテが装束を着替えるのも後見の役です。曲によっては、とても仕事量が多くなります。

この他にもシテ方は作り物を作るという仕事もあります。作り物は竹を組み合わせ、布を巻いていきます。舞い謡い装束を付け、作り物を作りと、舞台の上以外の仕事も結構あります。

 

どんな仕事でもそうでしょうが能の世界では楽屋での気配り、段取りというのが非常に大事です。言葉で伝えなくとも察する力がないといけません。いちいち指図されなくても次に必要なことをする。舞台は始まる時間が決められていますので時間を計りながら装束をつけたり、他の準備をする段取りができなくてはならないのです。誰かがこうしなさいとか、ああしなさいとか言うことはあまりありません。暗黙の了解といったような空気が辺りを支配していると言ってもいいと思います。しかも、自分たちの都合で舞台の始まる時間をずらすというのはゆるされません。見に来て下さっているお客様ありきなのです。そのことは忘れてはならない大切なことなのです。

 

 

また能はチームプレーです。シテは総合プロデューサーと言いましたが、自分のイメージや明確な意図を伝える。これは言葉での説明だけでなく舞台の演技の上でもです。五感で伝える。それをすることでひとつの曲を共同作業で作り上げていくのです。シテだけが上手でもだめですし、技術だけがいいからいい曲ができるかといったらまた違うのです。

能の世界は芝居のようにひとつの演目をするのに何度も打ち合わせやリハーサルはしません。申し合わせと言うのですが特殊な場合を除いては、前日か数日前に一度だけします。

それはそれぞれがレベルの高いプロであるということもありますが、申し合わせを何回もやると返ってよくないのです。合いすぎてしまう。というか間とか息というものは計算しすぎるとよくないようです。

シテ方 ワキ方 囃子方 間狂言すべての人たちの思いが、能の世界を創ります。同じ曲を全く同じメンバーでやったとしても、やる度に新鮮、そう思いたいし、そうありたいと思っています。

野球のピッチャーとキャッチャーの関係とは違いますが、能には少しのずれが思いがけない効果を生むということがあります。ビジネスの場面で同じ思考の人たちばかりでなく異業種の分野から来た社外の人が意外な力を発揮するようなものかもしれません。

 

他の世界と違うのは比較的多くの人が小さい頃から知り合いという関係ですが、仕事としてやっている訳で、仲良しグループでわいわいという訳ではありません。五感を使って、心を使い、或る時には無にして、そして頭も働かせてひとつの曲を皆で作っていくプロセスが人を成長させるのです。なにかひとつのものを作り上げていく。たかだか二時間程で終わる、それっきりの舞台だからこそ人の意図や心が終結したとき、えもいわれぬ舞台が出来ると私は思っています。

 

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