2007/09/24  

4話 歓楽街をつくった人たち(2)

 

◆性風俗産業

 

キャバレー、トルコ風呂、ヌードスタジオ ―

今となっては死語あるいはレトロな言葉となってしまいましたが、私にとっては懐かしいふるさとの風景のひとコマとして脳裏に残っています。キャバレーの呼び込みのおじさんに、「お嬢ちゃん、あと20年したらここに来るんだよ」と言われていたほろ苦いシーンが思い出されます。

 

これほど法規制とのイタチごっこが繰り返されてきた業界も他にありません。「風俗営業取締法」が改正されるごとにある種の業態が姿を消し、新種の業態が出現することが繰り返されてきました。「のぞき部屋」や「コスチュームプレイ」など、サービスの内容も高付加価値で部分的な性行為が非常に細分化された方向に発展しています。

 

性風俗業界は、今や女子学生や主婦までもがアルバイト感覚で小遣いを稼ぐことができるほど敷居の低い業界となっています。昔ながらの隔絶された玄人集団の世界の垣根がなくなっていくのには、一抹の寂しさを感じずにはいられません。

 

「顔で笑って心で泣く」 「体は売っても心は売らない」 ―

この世界の女たちが死守していたプロ意識などというものも、時代とともに風化しつつあるのです。

 

されど風俗で働く女 ―

この世界がどんなに大衆化されても性風俗業界への職業差別というものは非常に根強く、あらゆる社会差別のうち最も克服が困難な差別であると見る向きもあるのです。

 

◆ジャパゆき(1980年代〜)

 

日本政府は興行ビザを発行し、フィリピンを中心としたアジアの女性をダンサーや芸能人の名目で誘致しました。そして彼女らがフィリピンパブなどのホステスとして夜の街に流れていったのは自然な成り行きでした。

 

それに伴って「不法入国」という裏ルートが出現し、不法就労・人身売買の温床となっていったのです。貧しい地域の少女は、「日本に行ったらデパートガールになれる。そうしたら数ヶ月で一生の財産を手にすることができる」という一攫千金ものがたりに身を投げ出すのです。晴れて偽造パスポートを手にすることができるのですが、その見返りに一生かかっても払いきれない多額の借金と、一生口をつぐんでいなければならない過去を背負わされることになるのです。

 

借金地獄から抜け出せてやっと自由になる日本円を手にすることができます。そうして祖国に帰ったあかつきに、バーンと「日本御殿」を建てたりするのです。その姿を見てさらにニッポン・ドリームを夢見るアジアの娘が後を続くのは想像に難くないでしょう。

 

私の祖先の土地である九州の島原・天草地方の貧しい村では、人買(ひとかい)と呼ばれる人身売買ブローカーが外国の売春窟に娘を売り飛ばすということが行われていました。この少女達が戦前に「からゆき」と呼ばれていたのです。60年の年月を越えてアジアから経済大国日本へと、人身売買のルートは反転したのです。

 

日本の貧しい村から「からゆき」がアジアへ渡った60年前と、

アジアの貧しい地域から「ジャパゆき」がやって来る現代。

 

天は、負の歴史も繰り返させるというのです。

 

2004年には、日本は人身売買要監視国の指定を米国から受けることになります。かつて外国の指導で売春を禁止することができた日本は、またもや外圧によって人身売買を取り締まる法律を整備することができたのです。

 

◆ニューカマー(1980年代〜)

 

韓国で海外旅行が自由化された1980年代末以降、韓国人の住民が増え始めました。この時期以降にやってきた人は、もともとの在日外国人と区別されてニューカマーと呼ばれます。韓国系を中心にタイ・ミャンマーなどのアジア系のレストランや日本語学校が集中し、大久保地域一帯は日本隋一のエスニックタウンに変貌していきます。

 

とくに2000年以降、韓国の純愛ドラマ「冬のソナタ」で火が点いた韓流ブームによって、大久保コリアンタウンの規模はさらに膨れ上がりました。

 

ニューカマー世代と日本の若い世代の間には、もう暗い日韓関係の確執などはありません。大久保の屋外テレビ画面の前では、サッカーのワールドカップの韓国チームの試合を日本人も一緒になって応援していた姿があったのですから。

 

さらに中東からは、イラン人が徒党を組んで歩く姿もよく見られました。一説には、イランで放映されたテレビ番組の「おしん」に酔いしれたイラン青年たちが、「おしん」のような理想の日本人女性に会えることを夢見て続々とやってきたという話もあります。

 

そこで、現在新宿区にはいったい何カ国の外国人が居住していると思いますか。

 

とくに大久保一帯では、ややもすると日本人が少数民族であるという状況になってしまっています。新宿区の外国人の国籍は、なんと100カ国を超えているのです。

 

◆ニューハーフ(1980年代〜)

 

ゲイのメッカは新宿二丁目でありますが、女の街・歌舞伎町でも生きる道を見出していた人たちがありました。花の時を外れた寒い季節に紅の色を尽くして咲く椿のように。

 

「ニューハーフ」という新語が出現してからは、この人たちはいっぺんに明るくなりました。それまでというもの、女装した人たちは世間の冷やかな風を受けて生きなければならず、道行くにも日陰を選んで歩いていたような存在でした。

 

 身体各部位の手術やホルモン療法が進歩し、息をのむほどの美貌と妖艶なしぐさを備えたニューハーフ美女たちが街を闊歩するようになりました。そして非常に愉快なショーなどを繰り広げる店が増え、街のエンターテインメントを一手に引き受ける存在になったのです。

 

 人に見られまいとしていた時代から、堂々と見せて笑いを取る時代へと劇的に変化した様は、何か見えないものの勝利すら感じられるのでした。一つのマイノリティが社会的市民権を勝ち取った出来事として。

 

客層も、普通のOLから観光バスの団体ツアーまでの広い層を獲得することに成功しました。ニューハーフ人口も、同性愛者のみならず自分たちのお眼鏡にかなった美少年までをもスカウトしながらその数を増やしていったのです。

 

◆カラオケブーム(1990年代)

 

 1990年にカラオケボックスが雨後の竹の子のように街に増えました。この頃は、歌舞伎町で遊ぶ人の層が変化した時期でもあったのです。飲む・打つ・買う以外の目的でこの街に遊びにやってくる人が増えたのです。それは家族連れや主婦仲間といった人たちでした。

 

 KARAOKEといえば、日本が世界に発信できる大衆文化へと成長しました。しかしその影で下火になって失われてしまった文化もあるのです。

 

もともとはスナックなどでいい気分になった客が歌謡曲を歌い、その伴奏を専門にしていた人たちがいたのです。それが「流し」と呼ばれる人たちでした。流しがギターを抱えて縄のれんをくぐる風情ある光景は、もう今では見られないものになってしまったのです。

 

◆暴力団対策法(1992年(平成4年))

 

「暴対法」が施行されてから、歌舞伎町ではベンツや右翼の街宣車が一斉に表から姿を消しました。

 

 戦後復興期に闇市組であったテキ屋、博徒、愚連隊の3つの勢力が戦後の暴力団を構成したといわれています。今では、たった600m四方の歌舞伎町に100以上の組事務所が混在しているといわれます。それでいてこの街では不思議と治安が保たれているのです。これだけの繁華街で女性が夜に一人歩きできるということは世界的にも奇跡的なことなのです。

 

 それは、この街ならではの特別な事情が存在していたためなのです。

 

歌舞伎町のヤクザ事情は特殊であって、土地の縄張りというものが初めから固定していなかったということがあります。これには、この街の戦後復興が日本人ではなく在日華僑によって成し遂げられたということが大きく影響していると言われているのです。華僑たちがその力学を調整する一端を担ったのだろうということなのです。

 

◆外国マフィア(1990年代)

 

さて暴対法施行の後、この街に平和は訪れたでしょうか。

 

残念ながら、まったく真逆の結果になってしまったのです。街の治安は最悪になりました。暴力団の影が薄くなってからというもの、世界の犯罪が街に押し寄せてきたのです。

 

 通りにはコロンビアの金髪女性やタイや東南アジアの女性がずらっと立つようになりました。彼女達の話せる日本語はというと、「ホテルイコ」「ニマンエン」くらいのものでした。街に流通する麻薬の種類も一気に増え、街の犯罪のレベルが急に上がったのです。

 

日本のヤクザが分かりやすい風貌をしているのに対し、外国人の不良は見かけは分かりづらいのです。夜の帳(とばり)が下りると、リンチを受けているような外国人女性の物凄い叫び声が響き渡るのがしょっちゅう聞こえてきます。とくに中国人の不良は10万円で人を殺すのだという噂もどこからともなく聞こえてきました。

 

これが、マフィアの潜伏する街というものだったのです。

 

この時期は、始めて自分の街を「怖い街だ」と思った時期でもありました。「家族でこの街を離れてどこか平和な場所で暮したい」という考えを起したことも覚えています。それでも私達はこの街で日常生活を続けなければなりませんでした。

 

 2002年、歌舞伎町一帯は50台の防犯カメラが設置され、警察によって24時間監視される区域となったのです。

 

◆ホストクラブ

 

2007年現在、ホストクラブは全盛期でこの狭い界隈に200軒は存在しているといわれています。ホストというのは女に貢がせて成り立つ商売ですから、一昔前はつま先まで気障(きざ)を決め込んだ本格的なジゴロという輩が多かったのです。昨今はマスコミなどの影響でその存在がもてはやされるようになり、この業界に足を踏み入れる際の敷居もかなり低くなったようです。そのため、地方から上京して来たばかりの若者が流入してきている現在なのです。

 

この業界では短期間に収入が跳ね上がることが珍しくありません。 「太客(ふときゃく)」と彼らが呼ぶ、大金を使ってくれる客を捕まえて牛丼の生活から高級外車の生活へとワープしたという武勇伝がいくらでも生まれます。

 

新宿ドリームの象徴的ともいえる存在が彼らなのであって、街の大きな看板にイケメンなホストたちの写真がきらびやかに飾られている光景は、この街ならではの風情を演出しているのです。

 

色街の色が賑わう歌舞伎町

 

 

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