2007/11/05
第6話 不良力(ふりょうりょく)
『歌舞伎町曼荼羅』を書き進めて、全体の四分の一までに至りました。一章を書き終えるごとに、どっと魂が減るような感覚をおぼえます。
そもそも、人生の最期になって仏門にでも入らないと私のライフワーク作品である「新宿路上俳句」の完成はできないだろうと思っていましたところ、『寺子屋塾』より、「寺子屋塾で仏門に入る以上の人生の統合をやろう」との言葉をいただいたことから始まりました。そしてその言葉に動かされて執筆に向かったのです。
俳句という17文字の小さなキャンパスよりも100倍以上大きなサイズのキャンパスを与えられ、今度はゲルニカのような大作に挑む心境でいます。
これまでの章では、自分の土地の過去の統合に挑んできました。自分を作ってくれ、自分が影響を受けてきた土地の過去を統合することは、人生の統合の一環として重要な意味を持つのではないでしょうか。
この辺で、修羅道世界である『歌舞伎町曼荼羅』の舞台設定は出来上がったかと思います。これからやっと街に沈殿している”念”の部分に着手できる状態になりました。それは実は私自身の魂に沈殿しているのかもしれません。
しかしその前に、もう一つ大事な作業が残っていました。それは、視点設定の作業なのです。アウトローという、一般社会とは価値が逆転した世界を語る上で、そのような世界を偏りなく観ることが出来る視点を持つことは難しいことなのでしょうか。
規則破り
私は小学校から高校にかけて問題児・非行・不登校の3冠に輝いた学生でした。
皆に歩調を合わせて集団生活を送るのがとても苦手な子供だったように思います。
そもそも同級生の中でも、共働きや一人親の家庭で夜遅くまで親が帰ってこない子とか、家庭環境が複雑であったりする境遇の子は仲良くなりやすく、自然にはみ出した遊びを覚えていきました。そんな子たちが教師や学校の管理に従えないのは当然でありましょう。
そういう子は、周囲から「悪い子」という評価をされていきます。しかし悪い子たちは、悪い子にとっては一番あったかい仲間だったのです。何よりも、一番長い時間一緒にいてくれる相手なのですから。
中学校に上がった途端、学校規則がびっしり書かれた生徒手帳というものが渡されました。その中にはスカート丈や靴下の長さまでを、何センチにしなければならないというところまで細かく記されていました。
「中学校は厳しいところだなあ。規則をちゃんと守れるようになって大人になるんだな」と思ったのも束の間でした。
上級生たちは、学校規則に埋没してしまう大方の生徒と、全く規則を守らない「不良」と呼ばれる一部の生徒にはっきり分かれていて、自由奔放で個性のはっきりした不良たちが私にはとても魅力的に見えてしまったのです。
「素敵な不良たちの真似をしよう。先生なんかこわくない」
そうして、窮屈な学校規則を上から破っていきました。
当然、教師にたびたび呼び出されて注意されるようになりました。こともあろうか、このためにこそ私は反抗のしがいを感じていたのです。どんどん問題を起こして周囲をあわてさせ、教師の注意を引くのが楽しくてたまりませんでした。
授業中に抜け出して仲間と街へ遊びに行くわ、理科室から化学薬品を持ち出して遊ぶわ、職員室、校長室などの外に掲げられている「○○室」というステッカーをコレクションするわ、悪事が成功した時の勝利感は、実に気味のいい感覚でした。
学校には二つのルールがありました。一つは学校規則で、もう一つは不良の掟というものでした。
「仲間を裏切って教師に密告をした者は、リンチを受けなければならない」「不良の上級生が道を通る時はお辞儀をしなければならない」「他校との抗争に敗れたら、相手校の舎弟にならなければならない」など。
この種の掟は、過酷な刑罰が定められた規則体系でした。これは大人の反社会集団のミニチュア版ともいえるものです。不良たちは血なまぐさい組織を築き上げて、この掟を遵奉(じゅんぽう)し、代々伝承していくのでした。
「なんでそんな必要があるのか。こんなに面倒くさい掟を守るなんてまっぴら御免だなあ」
不良の世界の規範を尊重する情熱のかけらも私にはありませんでした。
管理教育への反抗の旗手であるべき不良こそが、自分達の作った法に縛られていたのでした。ある意味で、彼らこそ型にはまっている存在なのでした。
「一層のこと、不良なんてなくなっちゃえばいい」
そんな考えを起こしていました。不良の撲滅を意識して立ち向かったというわけではありませんが、結果としてその方向に自分が向かっていっていたのでした。
本当に私が反抗の矛先を向けた対象は親や学校教師にではなく、実は根拠なく威張っている不良達の存在に他ならなかったのではないかと思えるのです。
なんというか、インチキな権力に屈することが出来ないということだったのでしょう。
悪魔のニックネーム
そのころ当然、学校から両親のもとに「お宅のお嬢さんが学校でさんざん悪さをしている」という報告がいっていました。
母は私に向かってなんと、「どうせ不良になるのなら親分にならなければつまらない。下っ端になど決してなってはいけない。それが出来なければ即刻やめなさい」という驚くべきことを言ったのです。
「恐ろしいなあ、そんな勇気はあるかな」と、自問自答しました。それはいったい非行が承認されたのか、本当にやめろということなのか、その言葉の解釈に悩みました。
喧嘩なんか華奢(きゃしゃ)な女の子では出来るわけがありません。しかし私は、敵の権威を失墜させる巧妙な方法をつかんだのです。特定人物をネタにして悪意の笑い話を創作したり、辱めを受けさせるニックネームをどんどん創作して、宣伝していったのです。そうして、その本人が廊下を通るなり悪魔のニックネームを大合唱するということへ盛り上がっていきました。
あいつ意地汚いな。じゃあ、「イジキタ総艦長様」だ。
「イジキタ総艦長様のお通りー!」
更生
もはや、不良の掟をいかんともする権限を私が持ってしまっていました。私は次代の下級生には不良の掟などを伝承しませんでした。結果として、代々継承されてきた不良グループの伝統を自分の代で消滅させてしまいました。
教職員もPTAも警察も出来なかったことを、なんとなく私がやってしまったのだと思います。
時は、昭和50年代で全国的に校内暴力が最も激しかった時期です。とくに私の通った中学校は、東京都内でも非行のワースト上位を争うほど荒れ果てた環境でした。それだけに、非行少年の扱いにかけては非常に腕のよい教師が多かったように思います。
中でも、熱心に私に目をかけてくれる先生がいました。廊下で私を見つけては生徒手帳を広げさせて私だけの規則を書かせるようになりました。
「コラッ、貴美江。また誓約書を書け」
「誓約書 こんりんざい、授業中に抜け出さないことを誓います」
「誓約書 学校のものを壊すことは絶対にいたしません」
などなど、母印捺印つきでしぶしぶ書いていきました。教師に書かされたとはいえ、自分への誓いまではどうも破ることが出来なかったのです。
この先生の知恵のおかげで、規則破りの熱は終息に向かっていきました。
どうしてあんなに情熱的に反抗したのか、理由は分かりません。しかし、私は思春期の多感なこの時期に非常に大きな学習をしたのだと思います。
悪魔のニックネームによって開花した表現力は、のちに人間の姿を詩の言葉で書く表現力へと進化していきました。
規則破りで培った感性は、今では社会起業家への道のりの大きな助けとなってくれています。なぜなら、制度の未整備によって引き起こされている社会問題を解決するしくみをつくることが仕事だからです。または、間違った社会システムによって社会問題が引き起こされている場合には悪法を破ったり、社会システムを壊したりもしなければならないからです。