2008/01/01
第7話 ストリート大学 (1)
今回は、私の青春の苦悩をつづっていきたいと思います。
優等であることとは
平穏無事な高校生活に入り、私には漠然とした悩みが訪れました。学校の勉強は試験前の2、3日も集中すれば消化できるほどのものなので身が入ることはなく、毎日学校に通うことの退屈さと戦わねばなりませんでした。
私は街の図書館や本屋さんでこそ、知的好奇心を満たし知の世界の広大さに触れることの出来る場を見出していたのです。哲学や文学、社会学、心理学から科学技術の世界へと手当たり次第に魅惑の探索をしていきました。
皮肉なことにも、本当の智に目覚めたこの瞬間が学生生活からの転落の始まりとなったのでした。それまでは試験の前日に最高潮の勝負をすれば優等な成績は保っていられたのでした。しかし、ある時からこういう自分の要領の良さがインチキ臭く感じられてしまったのです。それどころか、同じ土俵にいる同級生たちの姿にも疑問を抱いてしまったのです。
私の学校には優秀な子女が集まっていました。それはとりもなおさず家庭環境が裕福で教育熱心であるという境遇の恩恵を受けているに過ぎないのだということが見えてしまったのです。彼女達の殆どは、学校が終わると「進学塾」という第二の学校にいそいそと通っていたのでした。
親に二倍の教育費を投資された環境の賜物である「優等さ」は、試験前日にだけ異常な集中力を発揮した結果の「優等さ」に輪をかけたインチキさであると、当時の私は感じてしまったのです。
もはや自分よりもインチキだと感じた相手と同じ土俵に乗ることをやめてしまいました。そうして学校の教科への興味はうすれていき、ますます図書館にたたずんで偉大な知の巨人たちからの教育を受けることに熱心になっていったのです。
いっぽう私の学校成績には、際立った格差が現れ始めました。興味のあるなしで極端な低得点と高得点に分かれるという状態になりました。今から思えば、これは自分らしい個性が発現したという証だったのでしょう。
真に知性が高かったり、天賦の才に早いうちから目覚めるような子は秀才にはなりにくいのではないかと私は思うのです。
どの科目も好き嫌いなく消化する事ができ、
宿題や塾通いというノルマを首尾よくこなし、
試験という目標にも燃えることができ、
悪い点を取るということはプライドが許さない、
何にもまして成績が落ちて家族や教師との人間関係に影響が及ぶことを恐れる。
これらの要素のたまものこそが秀才を作り上げるのだと思います。
実はこのような優秀さとは、知性とはかけ離れたものなのかもしれません。
マンガを描かせたら天下一品の子、
映画の知識にかけては評論家顔負けの子、
世界中の鉄道に詳しくなってしまった子。
こういう子は、たいがい不遇な学校時代を過ごさなければなりません。
残念ながら、日本の学校教育では一つのことを追求し探求していくという知的活動の最も根幹の営みを磨くことは望めないのでしょう。一番知的活動が活発な時に真に創造的な知性を磨こうとすれば、学校教育からのはみ出し者にでもならなければならないのです。
日本からは秀才は出るが天才は出ない
アメリカからは天才は出るが秀才は出ない
と言われますが、自分の得意分野を早期発見してその分野に十分なエネルギーを注げばもっと多くの人が天才になりうる可能性があるのではないでしょうか。
もしかしたら人間の本性は、秀才よりも天才になりやすいように出来ているのかもしれません。
独学派
大学というところは「レジャーランド」だという大人もありました。私の同級生の多くは、「大学に入ったらやっと遊べる」「大学に入れば好きな科目の勉強だけができる」「短大くらいは出ておかないといい結婚はできない」というような動機を抱いて大学進学に望んでいました。
はた、学問の探求には憧れども「レジャーランド」には行く気がしない。という背反した思いに悩んでいました。
そんな思いを抱えていては当然受験勉強にも身が入らず入学試験にも失敗するわけです。しかし不思議なことに独学というスタイルでその後何年も何年も勉強を続けることが出来たのです。
ユークリッド原論から、とうとう大学院クラスの現代数学の証明問題を読み解き、量子力学などの演習問題を自力で解答できるようになるまで到達することができたのです。数学と物理学なら紙と鉛筆だけでできるものでしたから。さらにあらゆる科学の分野の入門書までもカバーしてしまいました。
今は、大学4年分の講義内容や外国の大学の教科書までもが出版されていて容易に手に入る時代なのです。
私がそこまでの情熱を保ち続けられた源泉はいったい何だったのでしょう。何というか、高度なイメージの世界を表現した数式の芸術的な美しさに酔いしれていたということに尽きると思うのです。
または、日本の学校制度に対抗し、勝利をおさめたいという反抗心も幾分あったのだと思います。愚かなエネルギーの使い方をよくぞしたものだと自分ながらあきれる思いです。
しかし最初から最後まで自分の頭を使いきることができたということは何にも変えがたい経験だったと思います。これほど自分の血肉になる勉強ができたあの黄金の時代を、天が守ってくれたのだとすら思います。
人間の修羅場へ
二十歳を過ぎたころから、両親の店で働き始めました。ここではまったく感情の制御や理解をはるかに超える出来事にたくさん見舞われました。
一人で店番をしていると覚醒剤やトルエンに酩酊した男が「よう、ねえちゃん」と言って入ってきたり、目の前で長い刃物を持った男が人間を何度も切ったりと。
とっさに殺意を催すほどのことをやってくれた人間もありました。急激に感情がかき乱されると、本当に目の前がくらくらするものなのです。そんな時は自分の中の鬼が現れたのを見てしまいました。
毎日毎日、売春や窃盗や麻薬密売といった犯罪が行われている状況が日常的に目に入ってくるのです。その頃の私は、笑うことなどほとんどなかったように思います。私の心は、怒りと憎しみと悲しみや悔しさに閉じ込められていました。
歌舞伎町の路上はまさに人間の修羅場そのものでした。そんな修羅場の世界に身をおきながら、高度に純粋な学問の世界をますます希求していったのでした。まるで救いを求めるかのように。
編微分方程式の窓は雪