2008/03/31  

8話 ストリート大学 (2)

 

さて、大学には普通に進学しなかった私は歌舞伎町にある両親の店で働くことになりました。あらためて当事者として、都会の底辺で人間が四苦八苦する姿の始終を見ることになったのです。こうして「歌舞伎町」が私にとって、人生に必要な全ての知恵を学ぶことになるストリート大学へとなっていったのでした。

カラオケルーム

 それまで両親は飲食店の従業員が売り上げのお金を持って逃げたとか、従業員同士喧嘩をするなどというトラブルに一番悩まされてきました。それを私も知っていたので、娘たちが店を守ることでどんなに両親の肩の荷が降りることになるのかを感じていました。

 1988年、私達家族は当時どこにもなかった室内個室型のカラオケルームという業態の原型をつくりました。近くのゲームセンターに置かれたカラオケボックスがとても流行ったのを見て、本格的に防音ルームでフロアを分割した個室カラオケ専用の店を工務店に作ってもらったのです。

 この業態は珍しかったので、いろんな人が視察に来てたちまちのうちに真似をする人が出てきて、そのうち大手企業も参画して7年もたたないうちにカラオケルームは日本中からアジアにまでに広がっていきました。当時の私は、たいして面白いものだとも思えず、すぐに廃れてしまうだろうというくらいに考えていました。ところがこの業態が、日本を代表する大衆文化であるKARAOKEの主流となっていたのです。

私達は零細な家族経営だったので3店舗まで店を増やすことが精一杯で、雨後の竹の子のように新宿中に増えた競合店に設備の面でずっと追い越されていってしまったのです。ただ真似をされるだけの状態を唖然と見ているしかなく、どんどん敗北感が募っていくのを感じていました。私たちの手を離れたところでどれだけの経済効果を生んだかを考えると怖ろしくなります。

このビジネスをもっと真剣に伸ばしていこうという野心も知恵も当時の私には欠落していたのです。

 カラオケルームが増えたことで、歌舞伎町に遊びに来る人の層も変わってきました。それまでは歌舞伎町には来るはずもなかった親子連れや女友達のグループや奥さん同士といった人たちが率先してやってくるようになったのです。

 

 今やこれだけの巨大産業に成長することができた「カラオケルーム」の根っこはどこにあったのでしょうか。それは、平凡な一市民が簡単に舞台の主人公になれる仕掛けにあったのかもしれません。マズローの欲求五段階説というものがあり、この図の最上位は「自己実現の欲求」でありますが、この説にも叶っていたことのように思うのです。

困ったお客さん

 妹は大久保のカラオケ店を任され、私は歌舞伎町店の専属になりました。歌舞伎町店の前には公園があり、そこではテントやダンボールの住居で路上生活をしている人たちがいました。そのおっちゃんたちは実にさまざまなトラブルを持ってくる存在でした。

 カラオケの操作を何べん教えてもいっこうに覚えてはくれず、操作が出来ないといっては怒って私を呼びつけ、何人かで部屋に入るとそのうち仲間割れの喧嘩がきまって始まります。そして今度はおとなしくなったと思ったら酔っ払って寝込んでしまっていて起こして外に出てもらうのが一苦労なのです。私はなんでこんなことばかりしなくてはいけないのだろうと、情けない気持ちでいっぱいでした。

 昼間はそういうおっちゃんたちの対応に振り回され、夜になると今度はサラリーマンや学生がやってきてお酒を飲んでさんざん踊ったりして部屋の中で吐いたりしてくれます。おまけに受付けにいる私を冷やかしていくのです。恥のかき捨てとばかりに店のものを壊したりどんなことでもやっていくのが彼らだったのです。

 そのうちに、公園のおっちゃんたちのほうがネクタイ族よりも人間的にあったかいのだということが分かってきました。なんと路上生活のおっちゃんたちは「変な奴が絡んできたら俺たちが守ってやる」と言って歌舞伎町の真ん中で店を切り盛りしている若い私を守ってくれようとしていたのです。困ったことばかりしてくれるおっちゃんたちを嫌っていた自分自身が、親不孝をしていたかのように恥ずかしく思えてきました。こんなおっちゃんたちが両親の食堂に安いご飯を食べに来てくれたお陰でこそ、自分は私立の名門校にも通えて勉強も自由にすることができ、綺麗な洋服も着ることが出来たのだから。

 

 そう心を入れ替えたところ、今までトラブルだと思っていたことはみんなおっちゃんたちが何かを訴えていることだったのだと気付き、その訴えに耳を傾けることができるようになったのです。

 公園のおっちゃんたちがカラオケで選曲する曲は、だいたい似たり寄ったりでした。しかも同じ曲を繰り返し繰り返しかけるのです。日雇い労働者のわびしさをうたった『山谷ブルース』『釜が崎人情』、集団就職の風景である『ああ上野駅』、任侠ものの『兄弟船』『男の背中』というような演歌です。また、訳ありの身で二度と故郷の敷居をまたげない新宿のおっちゃんたちは、故郷の土地の歌を涙ながらに歌うのです。彼らは、それらの曲の中のたった1フレーズの歌詞に出会いにやってくるのだということが分かってきました。

 ある寒い雪の降る夜、カラオケの部屋からモジモジしながら男が出てきました。料金を請求したところ黙ったまま怖い顔をして私の目の色をうかがっています。繰り返し料金をもらおうとしたところ、「金は持っていない」と言うのです。ここで言葉を間違えたら私は怪我をするなと、とっさに感じました。そうして「本当のお望みはいったい何なの?」と聞いてみました。とたんにその男はわっと泣き出し、仕事もなく住むところもなく新宿の路上生活者たちにもいじめられた挙げ句、刑務所の生活のほうがましだと思うようになったことを語り出しました。私は警察に突き出すこともなく、まだまだ頑張れみたいな事を言って返しました。

 もっと凶暴な強盗が入ってきたこともありますが、そんな刹那に店員が怪我をする結果になるかどうかも、言葉ひとつで明暗が分かれることなのだと分かりました。薬物に酩酊したような男に先端の尖った工具を突きつけられたことがありました。居直った気持ちになって男の目をじっと見てやったら、「なに、お前さんの心を覘いてやったまでよ」と手を離しました。

 どこの店にいっても爪はじきにされるので初めから挑戦的な態度でかかってくる者もありました。

 私は新宿の人たちに試されている!

そう思いました。いや、こういうジャングルのような社会では相手を試すということを、人間は野性として自然に行うのかもしれません。

身を守る 

 路上で寝ている人たちには、安心して大の字になって寝ている人はほとんどいません。みんな大事な内臓を抱えるようにして身を守るような格好で寝ているのです。

 私は母から、歌舞伎町は治安の悪いところだからと小さな笛を持ち歩くように言われていました。万が一誰かに襲われた時に笛を吹いて周囲に知らせるためです。さらに、道で男に声をかけられないようにエプロンをつけて歩くように決められていました。どこかの従業員だと分かるとだれも声をかけてはこないからです。女性が一人歩きをしていると売春目的ですぐ声をかけられるような街なのです。

 都会のジャングルでは、みんな天敵から身を守る術を多かれ少なかれ身につけているものなのです。

 悲しいかな、やむをえず万引きでもしないと生きていけない人もいます。そんな人たちはツバの大きい野球帽をかぶることで防犯カメラを避けていたりしているのです。

 路上生活者の中には、靴の中に紙幣を隠し持っていたりするものがあります。寝ている時や不意の時に何者かに盗まれないための防衛なのでしょう。

 どんな人間でも、本当に無力なものには攻撃しようとはしないものです。

何者にも服従せず何者にも勝ち誇らない、非力を貫くしたたかさというのも、ある意味身を守る大きな力になってくれるものだと私は思うのです。

 私の経歴の中に、「9ヶ国語独学」という特異なものがあります。もともとは高校でフランス語が必須科目だったことを皮切りにラテン語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語、韓国語、中国語、タガログ語と一通りかじってしまったわけです。ここまでのモチベーションを維持したわけには、不良外国人の多い新宿でトラブルに遭遇した時の防衛のためということでもあったのです。

捨てた娘のはたちに挙げるコップ酒

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