2008/06/30  

第9話 ストリート大学 (3)

人から見た私の印象は、おとなしくて口数の少ない女性です。「キミエちゃんは人の100分の1しか喋らない」と言う人もあるくらいです。誰と会話をしてもいつも聞き役に回ります。私にとって、次から次へと喋り続けることは大変に苦痛ですらあるのです。 

ところが、私に与えられた能力のうちで最も際立っているとされるのが、他ならぬ「言葉を扱う」能力であるようなのです。

この矛盾は自分でも面白いと思っていますが、ここを掘り下げたところに自分の本質が存在していたのです。

  

聴く能力

私が思春期に非行少女となってしまった時に、すさんだ心を和ますために父はたくさんのクラシック音楽を与えてくれました。モーツァルトやシューベルトからベートーベンまで、テープが擦り切れるほど聴いたことを思い出します。

クラシック音楽の世界には、天変地異、感情の起伏、大自然や宇宙の広がり、革命の気概、華麗な社交界、世界を包む愛や平和といったあらゆる旋律がありました。

心の底からじいーっと聴くという姿勢を、私はこの時に学んだのだと思います。

ところがこの街にいて耳に入ってくる音の中で一番顕著なのは、パトカーや救急車・消防車のサイレンであります。けんかの声、歓喜の声、悲鳴、怒号といった尋常ではない音で覆われた街なのです。

たくさんの街の音は次第にノイズとなって小さくなっていき、私の心は静かになっていきました。私の物静かさは、まるで蛙が飛び込む前の静かな池を心に大事に持っているような状態だといえます。

すると、蛙が飛び込む水の音が大きく聴こえるのです。雑多なセミの声は遠くの岩に染み入って消えてしまい、本質の蛙の音だけを聴き取ろうとする。こういうことを自然に習得していったように思います。

ちゃんと聴く能力は、人間の活動のいろいろな場面においてとても大切なことだと思います。

いまや一般家庭のテレビのリモコンには50個近くのボタンが並んでいます。こんな道具を使いこなせる人がいたら、よっぽどの変人であるとしか思えません。

これは、高い技術を誇れば誇るほど製品が使い物にならない方向へずれてしまう例です。「すごいものを作って誰にも負けない」というWANTS(ウォンツ)と、NEEDS(ニーズ)との乖離が起こってしまっているのだと思います。

技術者は、本当に人々が求めているモノをちゃんと聴き取っているのでしょうか。でなければ、文明のゴミが量産されるだけとなってしまいます。

また、援助や環境保護という行為を行う時にもちゃんと聴くことをしないと誤ってしまいます。

「良かれと思ってやってあげること」と「相手にとってありがたいこと」がずれているといいましょうか、これが昂じると”善行者”は弱者や地球環境をダシにして一方的に誇らしくなることができますが、”受益者”にとってはありがた迷惑であったり、善行の踏み台にされるばかりです。

進歩や善行という名のもとに、ほんとうに聴くべきものが聴こえなくなってしまってはいないでしょうか。

ちゃんと聴くことは、芸術でも技術でも政治でも土台となることだと思うのです。

消費者のニーズを正しく聴き取って作られた製品であれば、待望されたかのように世の中に受け入れられるはずでしょう。また、社会のきしむ音や民意を正しく聴き取ることができてはじめて本当に社会に有益な政策を立案することが可能となるのではないでしょうか。

言葉の力

私はこの街によって言葉の感覚を叩き込まれてきたと思っています。

歌舞伎町の人たちの多くは心中おだやかでない状態にあるのが常であります。うっかり言葉を間違えたりすると、むしゃくしゃした感情を一気に爆発させることも起こりえます。急激に怒ったり、また泣いたりするのです。

心のフラストレーションの密度が高い地域において、傷害事件や殺傷沙汰に発展する原因の大半は言葉の使い方にあるといっても過言ではありません。

心に持っている恨みつらみのフラストレーションは、悪意となっていとも簡単に短い言葉の裏に乗っかってしまいます。

悪意が乗った言葉は、ときに刃物のように危険な凶器となりえるのです。

街の人たちはそのことを十分に熟知しています。フラストレーションを持つ者どうし、極力まちがいが起こらぬようにと配慮をしあいながら暮しているものなのです。

私たちは、普段使っている言葉にいろいろな念(おも)いを乗せています。ところが、言葉とはまったく違う念いを巧妙に乗せることが私たちは得意なのです。

ほめ言葉の裏に「私のほうが上等よ」という念いが乗っていたり、お誘いの言葉に「あなたなら簡単に騙せるわ」という念いが、なぐさめの言葉に「自業自得よ」という念いが乗っていたりします。

ひょっとして、私たちは念いと一致した言葉を使うことのほうが苦手なのではないでしょうか。ともすると一生、念いとは違う言葉を使い続けて終わる人もいないとは限りません。

念いと一致した言葉であれば、人の心に響かないはずはありません。

力を持った言葉とは、こういうものなのでしょう。影響力を持つリーダーは、力を持つ言葉を扱える人でもあります。多くの人が力のある言葉に扇動されるのです。

たとえ少ないながらも、私は自分の言葉には一語一念をつくしていきたいと思うのです。

泥酔の一語の中に真実(まこと)あり

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