2012.02.08      

7話 「一座建立」

年が明けて寒い一日を京都で過ごしました。

久しぶりに会う京都の茶友と老舗の茶懐石店へ行きました。

玄関先には打ち水がしてあり、予約をしていたこともあるのでしょうが、中居さん二人が玄関先で迎えてくれました。はじめて伺うそのお店は、老舗の佇まいを感じるどっしりとした、かなり古い二階建ての和風建築です。建物はあちこちの古材や家屋を移築して一件の茶懐石の料亭に建てたものです。

ところが、隅々まで掃除の行き届いた店内は、白檀の香りで邪気を払い、店内の長い石畳の通路には水が打ってあり、草木も瑞々しく手入れさており、店内のあらゆるものから人の温もり、お客様をお迎えするおもてなしを感じました。そのおもてなしからお会いしたこともない店主の姿を感じる事ができました。「ようこそ、お越しくださいました。ゆっくり楽しんでくださいね」という想いが伝わってくるのです。そのおもてなしから、まだ、料理を頂いていないのに、味に期待がもてました。

茶懐石の料亭だけあって、料理の器は、お正月らしい茶道具を料理の器に転用して茶人の心を喜ばす趣向がありました。八寸は羽子板の姿をした木地に数種類盛り付けられていました。

煮物碗の蒔絵の南天からもお正月を感じられます。南天の実は冬に実らせるのでお正月を連想させます。私の友人が「これ、南天ですか」と給仕をしてくれる仲居さんに尋ねました。

「南天の『な・ん・て・ん』の音と『難を転じて幸となす』の音を重ねあわせた縁起物なんですよ」と、にこやかに説明してくれました。

料理の説明もステレオタイプではなく、私たちの興味に合わせて強弱をつけて説明してくれるのです。ただ、記憶していることを話すのではなく、おもてなしをしようという想いから出てくる活きた双方向の会話がありました。

煮物碗の中身は、上品なお出汁に海老真蒸、シイタケ、梅の姿をした大根の白と人参の赤でおめでたい盛り付けをしていました。

ごく自然に、私たちは一つ一つの器や料理を楽しみながらいただくようになっていました。心が喜び自ずと友人との会話は発展的な内容になっていきました。

最後に出てきた主菓子は薄い紅色をしたキントンに金箔がのっていました。最後までお正月の趣向を味わい、お抹茶をいただき、席を立ちました。

玄関先ではお店の奥さんが見送ってくださり、四季に合わせた設えや建物の説明をしてくださいました。友人が、「また、来たいね」といいました。そこには、確かにもてなす側ともてなされる側との一座建立がありました。

懐石店を出てから次に向かう美術館への道中も、友人と『あの器にお造りを盛りつけるって素敵よね』と茶懐石店を出てからも私たちはお店の設え、料理、おもてなしの話題に尽きる事がありませんでした。余情残心の時間をも創ってくれたのです。

夢中になって話しているうちに、最近立てられた美術館に着きました。静かな館内で軸や茶碗をゆっくり観賞しました。莫大な資金を投じて創られたはずの美術館は、先ほどの磨きあげられた料亭とは異なり、なんとなく淀んだ空気が流れていました。建物の奥には広大な敷地に庭と茶室があり、私たちは、その茶室に招待されていました。

建物そのものはすばらしいのですが、手入れがされていません。池の水はひいて、背の低い屋根には枯葉がたまって、おもてなしの想いが無いことが伝わってきました。友人が「こんなに立派な美術館なのに、もったいないよね。やはり場は人が創るっているんだね」とつぶやきました。

庭を通過してお茶室へ通されました。床へ向かうと、福寿草が描かれた軸と南天と水仙の花が伊賀の花入に生けられてありました。

「気がないなぁ・・・・」

新年であるにもかかわらず、二級品を使った床の設えであり、亭主がお客様を迎えようとしている「気」を感じませんでした。
 
 お茶のお点前が始まりました。無表情で無言で茶筅を激しく振る手の勢いばかりが目につきました。和やかな雰囲気もなく、私たちは、ただお菓子とお茶をいただくだけでした。
友人はたまりかねて、「この美術館の創業者はどんな事業をされていたのですか」と尋ねました。返ってきた言葉は、「さあー」。今回の展示会のコンセプト、また目の前にあるお茶室の設えの説明も全くありませんでした。

お点前をしている亭主が客と“一緒にいない”のです。主客がともに一座を創り上げるセンスがなければ、すばらしい道具、茶室があっても本末転倒です。お茶を点てることを通して自分の想いを届ける、そしてその思いを受け取ってもらうことがおもてなしなのではないでしょうか。

言葉を以って、道具の設えを通して、所作から、目を合わせる事や気配など伝え方はいくつもあります。 しかし、伝える思いがなければ、一体何をしていることになるのでしょうか。自分を知ってもらう事、相手を知ろうとする想いがなければ、その場で行われている事はなんでしょうか。

また、先の料亭のように古い建物でも手入れがされていると、その場から温もりを感じます。反対にこの美術館のように、高価な建物でも手入れがされていないと陰気な場になり人は離れていきます。人が手をかけて場を設えている過程は、もてなす側の心の塵を祓い清める事であり、準備の過程がおもてなしの想いを創り上げていきます。

最近、思うことがあります。お茶のお稽古は、歴史や道具、お点前をもちろん学びますが、その学びの真髄は、人と“一緒にいる”ことではないでしょうか。

 “ただ一緒にいて”、目の前の方においしいお茶を差しあげる、ただそれだけのことです。ただそれだけのことの背景には、多くの学び、経験、周到な準備、そして何よりおもてなしをするという想いが基礎にあるのだと思います。

私はいま、学びの深遠さ、そして、目の前の方にお茶を差し上げる機会に恵まれていることに幸せを感じています。

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