2013.1.22    

13話「おもてなしは茶道の中に生き続けている」

これからの茶道は、いったいどんな姿になっていくのでしょうか。今回は、お茶の歴史を概観することで、時代によって変化するものの中に、お茶を貫く軸を見て、未来のお茶を探求したいと思います。

奈良時代に遣唐使や中国に留学していた僧たちによって茶を喫する習慣が日本に持たらされました。平安時代になると、遣唐使が廃止され唐との交流が途絶え、茶を喫する習慣は一時的に衰えました。

鎌倉時代のはじめに、再び、中国へ渡る修行僧によって、茶を喫する習慣を日本へ持ち帰り、献茶や供茶といった宗教的儀礼や、客人へのおもてなしなどの儀礼的な茶の作法が行われるようになりました。

また、眠気覚ましや二日酔いに効くと言われ、さらには万病にも効く薬としても珍重されていました。鎌倉三代将軍源実朝が、ある宴会の翌日、頭が重く苦しんでいたときに、お茶が良薬だと差し上げたところ、体調が良くなったという逸話が「吾妻鏡」に記されています。

実朝はお茶を喫すようになり、喫茶の習慣は、上流階級、特に禅僧と交流のあった鎌倉武士たちの間で流行しました。中国との貿易を通じて大量の中国の文物が輸入されました。茶に使用する道具(唐物)も輸入され、鎌倉時代後半には唐物を鑑賞する中で、お茶を飲むかたちが生み出されました。

当時、お茶をふるまうことは、大変なおもてなしとなったことは想像に難くありません。

室町時代には、風流を愛した8代将軍足利義政も、禅僧などと交流を持つうちに、お茶を嗜みました。義政が茶を愛好し出すと、一般の人たちにも茶を飲むことが流行しました。寺院の門前など人の集まる場所に茶売りの姿が現れ、茶一服を安い値段で点てて飲ませることから「一服一銭の茶」といいました。

当時の町の人にとってみれば、「これが噂に聴く、お茶か〜」と、喜んで飲まれていたのではないでしょうか。

戦国時代には、信長は功労のあった武将にのみ茶の湯を開くことを許し、名物狩りをして戦の手柄として茶道具を下賜し、「茶の湯御政道」と言われるほど、茶道は大きな役割を果たすようになります。確かに茶道具そのものの素晴らしさはありますが、その本質はおもてなしにあったと思います。

戦国時代の武将は明日をも知れぬ環境の中で、大切な人と一期一会のお茶を飲むことで、命の大切さをその一瞬に込めて表現したのだと思います。

江戸時代に入り、地方の大名にも茶道は親しまれ、まさに茶道がおもてなしの文化として進化していきました。

しかし、明治時代には文明開化の起こりで、西洋文化が賛美され日本の伝統文化は隅に追いやれるようになります。さらにこれまでの身分制度が廃止され、大名の庇護のもとにあった茶道界は大きな痛手を負いました。その一方、明治の実業家たちが、ビジネスの世界でおもてなしとしてのお茶をするようになりました。

これは新しい形の茶の湯御政道ですね。その背景には日本文化や精神を守るという想いが明治のビジネスマンたちにあったのだと思います。

さらに明治には、男性中心であった茶道にも大きな変化が起こりました。裏千家茶道は、一般市民に普及するべく教育の場へ茶道を取り入れていきます。なかでも新島八重は女性が茶道を嗜むことに大きな貢献をしましたし、女学校では、私たちの祖母や母たちの「花嫁修業」の一貫として茶道が普及されました。

また、第二次大戦後、夫を失った女性たちに仕事の機会を提供するために、大きな役割を果たすようになります。

このように大まかに歴史を見てみると、茶道はどの時代においても、その環境に応じて変化して発展してきました。時代を越えて存在し続ける茶道には、その根底に、人間の普遍の価値である「直心の交わり」と「美」があったにちがいありません。

現在、身分制度の無くなった私たちの時代には、老若男女、国籍を超えて、お茶を楽しむことができる環境が与えられています。真摯に茶道に関わる人が行う茶道には、まさに「直心の交わり」を求めてさらに進化した茶道を求められています。それは、日常で茶道の実践としての「直心の交わり」を行うことです。

高価な茶道具や茶室がなければできないのではなく、人との関係性を大切にする人が集まる場になっていくのだと思います。

私たち一二三会の稽古場では、月釜と称して、毎月、稽古人がお茶を通して自分の専門分野を表現しています。そこへ呼ばれたお客様は、改めて亭主の人となりを知り、深い関係性を築いています。

一二三会の羽鳥さんが5月に行った「庭茶会」を紹介します。

羽鳥さんは、埼玉県で造園業を営む38歳の男性です。大学時代に登山と出会い、自然の偉大さに尊敬を持っていた青年でした。大学を卒業して会社員をしていた時代に、実家の家を建て替えることになりました。その時、庭作りを自ら手掛け、夜も眠れないほど夢中になって自宅の庭を作りました。その後、庭の魅力を伝える仕事がしたいと、京都の造園業者へ弟子入りして、研鑽を積み3年前から埼玉県で造園業を始めています。しかも茶道や花道を習い、日本文化のエッセンスを仕事に反映しているのです。

私は、茶道を初めて3年の羽鳥さんに「今年から、稽古場を会場として月釜をはじめようと思います。稽古場と、稽古場の茶道具で使えるものがあれば使ってください。購入したいものがあれば相談してください。稽古場として必要な茶道具なら、いい機会と捉えて購入しますね。羽鳥さんの表現したいお茶会をしてみませんか?」と、声をかけてみました。

羽鳥さんは、目を丸くして、しばらく言葉が出ない様子でした。

「お稽古を初めてまだ、3年でそんなことできないと思っていますね。羽鳥さんに、ちゃんとしたお茶会ができるなんて私も思っていませんよ。稽古場という守られた環境で気心を知った方をお客様としてお迎えすることで、このお茶会を通して羽鳥さんの腕を挙げてみませんか?」さらに、「腕を上げるだけでなく、多くの人へお茶会を通して庭の素晴らしさを伝えてみませんか。お茶のお稽古を初めて3年の人でも真摯に自分の想いを伝えるお茶会は、多くの人に感動を届けることができるとお茶を志している人へ勇気づける存在になってみませんか」と、私は話してみました。

すると、羽鳥さんは「はい、やってみます」と、力強い声で答えてくれました。

何度も何度も計画を練り直し、稽古場の玄関に半日だけの庭を作ったり、お菓子をいただく楊枝は、お茶会を手伝った仲間たちと黒文字の枝を自ら削って準備しました。お招きしたお客さまたちは、羽鳥さんの専門性を生かした斬新なお茶会に目を見張りました。
 
 現代は、さまざまな分野の仕事をしている人たちがお茶をできる環境があります。それぞれの専門性を表現することで、その人らしさが茶会に現れ、亭主の人となりと専門性を感じることができるのではないでしょうか。

これも現代という時代の特色を生かし茶の湯が変化しているといえると思います。このようなお茶会もすばらしいのではないでしょうか。

私は普通の人たちの日常に、お茶を生かす試みを通して、お茶のすばらしさを伝えて行きたいと思います。

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