2012.11.06 

第1話 生い立ち

 

1966年10月2日に福島県須賀川市で、両親と弟の4人家族の長女として生まれました。

須賀川市は、東洋一と言われる牡丹園と、日本三大火祭りの一つである松明あかしで知られる町です。また、宿場町として栄えていた歴史があり、松尾芭蕉が長く滞在していたことから、芭蕉記念館があります。私の実家は、そこで約40年間、贈答品、寝装寝具、インテリアなどを扱う店を営んでいました。
 
 両親のことについて触れたいと思います。

父は、人を楽しませることが好きで、初めて会った人とも長年の友人のように親しくなることがよくある人です。英語を話すわけでもないのですが、なぜか国境を越えて諸外国に友人ができ、気がつくと家族ぐるみのお付き合いに発展していることもあります。外出先で友達になった人をその日のうちに家に招待して連れてくるということもあり、時に家族が振り回されます。

また、「庭の芝生が髪の毛の次に大事です!」などと周囲を笑わせながら芝生の手入れをし、花壇には1年中花を咲かせることを趣味にしています。

 弟が子どもの頃、庭でバック転の練習をしていて失敗し、肩から落ちて脱臼した時には「大丈夫か?!・・・芝生は!」と芝生に目線がいってしまい、「あの時お父さんは息子より芝生を心配したんだよね」と、ややあきれられながらも、家族のだんらんに笑える話題を提供するような出来事を日々生み出しています。

母は、私の目から見ると、思慮深さと冷静さがあり、夫を立てて常に花を持たせようとする、という印象です。華奢で、か弱そうに見えるのですが、実際は芯が強く、家族を支え、守っています。

歌が好きで、日々の生活そのものがミュージカルかのように、何につけても静かに歌っています。ただ、なぜか童謡、文部省唱歌、クラシック、讃美歌の4ジャンルだけが守備範囲で、歌謡曲や、ジャズ、シャンソンは、全く歌いません。母はクリスチャンではありませんが、子どもの頃、父親が自分の娘たちに讃美歌を教えていたそうなので、歌うことで、楽しかった子どもの頃の心の旅路を歩いているのかもしれません。

母は、日々5人の孫達の世話を引き受けていますが、孫達も影響を受けて、小さいうちは特に、花火を見れば花火の歌を、トンボを見ればトンボの歌を…という感じで、よく歌っていました。特に、熱を出して1日中母におんぶされている孫が、母の背中でいろいろな歌を聞いているということがよくありました。

また、母は周りの人々のために自分ができることは何かをいつも考えていて、自分のことは後回しなのが当然だと思っているふしがあります。

弟は「僕は子どもの頃、おかあさんはスイカの切れ端の小さい三角のところが好きなんだと本気で思っていた。いつもそこばかり食べていたから」と、大人になってその行動の意味に気付き、周囲を笑わせたことがあるくらいです。母の行動は徹底していました。それが自然に見えますし、自分が何歩も下がって人を優先させるようなその行為を嬉しそうにしています。

私は生まれてから4年間は、のどかな景色が広がる父の実家で暮らしていました。 祖母、父の姉夫婦とその子ども2人、父の妹2人と私たち、合計11人での賑やかな暮らしでした。

 両親が結婚する前に祖父は他界していて、祖母は、日用品や食品などの雑貨店を営んでいました。近所の人々が買い物がてら集ってはお茶を飲み、よもやま話に花を咲かせていました。家には父が拾ってきたという犬もいて、私はその犬とも戯れながら、多くのおとなに囲まれて暮らしていました。5歳になる直前までそこで過ごしました。

父は母と結婚する前から商店を始めており、結婚後は母と二人三脚で約40年間、店の経営を続けました。

両親は私が5歳の時に新店舗を構え、その隣に自宅を建て、家族4人で父の実家から引っ越しました。

店では、贈答品・寝装寝具・インテリアなどを販売していて、カーテン・絨毯・ブラインド・壁のクロス・床材など、内装工事の業務も行っていました。開店当時としては、売り場面積が広めだったこともあり、品数、在庫が多いことが店の売りの1つだったようです。冠婚葬祭の引き出物など、今のようなセレクトカタログなどがまだ広く普及していない時代は、百個単位での現品の注文に、自分の店舗で箱詰めや包装をしていて、深夜までの残業も多くありました。また、文化センターなどの施設建設での入札が決まると、内装工事や納品が完了するまで、期限に間に合うよう従業員さんも職人さんも総動員での作業が続き、その様子を子どもながらに緊張感を感じながら見ていました。

 また、両親の方針は、質の良いものを提供すること、扱った商品には責任をもつこと、お客様が満足する接客の姿勢を貫くことなど、子どもの私たちが見ても、それはよく伝わってくるほど徹底していました。品質を確認するため、仕入れた品物を分解して中を確認する父の姿が印象に残っています。

日々の生活に関しては、店が繁盛すればするほど、両親は深夜までの残業が増え、私と弟は夜になると自宅に出前を届けてもらい、2人で夕食をとる日々が長い間続くのでした。30年近く過ぎた今でも、出前をお願いしていた店の電話番号やメニューをはっきり思い出せることからも、かなり頻繁にお世話になっていたのだと思います。

週末になると、店や現場での手伝い、配達などに駆り出されることも多く、年末などは、従業員さん達が退勤してから、商売をしている方々のご年始挨拶用の品物の注文をこなすために、夜遅くまで箱詰めや包装の仕事をしていて、毎年大みそかには、「今年こそは紅白歌合戦が始まるまでに終わるといいな。」と思いながら手伝っていましたが、その希望がかなったことはなく、そのたびに、「大みそかに家族みんなで年越しそばを食べながらのんびりテレビを見る暮らしとはどんなものだろう」と想像したりしていました。

実家を離れてからも、年末には必ず手伝いに行くのが自分の使命だと感じていました。
両親と私たち子どもの休日が違っていたため、一緒に休めるのは年に数回でした。子どもの頃はそれが普通でしたが、カレンダー通りの仕事をする家庭に育つ友人の生活を見て、時には羨ましいと感じることがありました。家族そろって夕食をとったり、休日にどこかに出かけたり、買い物に行ったり、そういう暮らしをしてみたいと思うことも時にありました。

ただ、年に数回ある親子共通の休日や、お盆・お正月休みなどは長めにとり、両親も前もって計画を練り、旅行に行ったり、子どもたち優先の企画を立てるなど、私にとっては、その気持ちがうれしく感じられました。それが楽しい思い出になり、当時の私は、いつか自分が家庭をもったら、子どもと過ごす時間をたくさん作ろう、ふれあえる環境を作ろうとよく思ったものでした。

しかしながら、後になって考えると、この頃の生活が私の人生に大きな影響を与えることになりました。特に、来店するお客様、従業員さん、問屋さん、毎日回ってくる銀行の方、同業の仲間の方々など、多くの人々との出会いと触れ合いは、私に“人”に対する強い興味・関心を抱かせました。子どものころから、気がつくと“人”を観察していて、それは私にとって、遊ぶことよりも、テレビを見ることよりも、何よりも興味をそそるものでした。目の前に現れる1人ひとりの人の外見から立ち居振る舞い、話の仕方、話す内容など、その人を現す一つひとつの特長をそれとなく観察していました。その人がどんな人で、どんな思いをもっていて、どんな考え方をし、どんな生活をしているのか、そして今どんな状況なのかなど、目にしたり耳にした情報から、いろいろと思いを巡らせたものです。店の事務コーナーの片隅で、何をするでもなく、自分も会話の仲間に入っているような感覚で話を聞いていることが何よりも楽しく、興味深いことでした。そして、この体験が、後の仕事に大きな意味をもつことになったのです。

また、父とお客様とのやりとりの中から学ぶこともありました。
ある時、あるお客様に対して、父はたくさん値引きをしました。そのお客様は喜んでいる様子でした。ところが、次のお客様に、父は値引きをせずに、値引き分より金額が少し上のサービスの品物をつけました。お客様が帰ってから尋ねた私に父はこう説明しました。

「先ほどのお客様は値段を安くされることがうれしいと感じるお客様なんだよ。でも、次のお客様は、値引きをされるとその商品そのものの価値を低く感じる方なんだよ。それよりも、役に立つ商品をプラスしてもらう方がうれしいと感じる方なんだ」

「どうしてそれがわかるの?」

「雰囲気でわかるんだよ。そのお客様が店に入ってきた瞬間にわかるんだ」

「どうすればわかるようになるの?」

「その方が何を望み、何を願っているのかということに真剣勝負で向き合うんだ。何度も繰り返していくうちにだんだんわかるようになってくるよ」

 また、店には、母に話を聴いてもらうのが楽しみで来ているというお客様が代わる代わる来店していました。父はよく、「店の看板を『身の上相談所』にした方がいいかもしれない」と苦笑いしていました。

 このような環境の中で、高校を卒業するまでの18年間を過ごしました。

次回は、教師を志した理由について書かせていただこうと思います。

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